読み逃げ?
テレビ野球の巨人離れ…読売から逃げる…否 注:私は阪神ファンです
「みくし」で足跡だけ残してコメントせず去ることだって。「見るだけ」…それはつまりweb閲覧で最も一般的な行為。
なのにそれを失礼と感じる向きがあるんだと。折角書いたのに読むだけで何も反応しないとは何事だ。ってわけ。
オレ「読み手がいる」ってだけで嬉しいけどなぁ。この館だってド素人の無手勝流なのにカウンター回ってるんだぜ?出版物がある訳じゃないし、なのに読み手がいてくれるって、奇跡的とは言わんでも、とてもスゲーことだと思うけど?
そのオレが感想を強要し始めたらどうよ。まぁ間違いなく閑古鳥が鳴くだろうね。自分だって、もしやられたらキモいって思うもん。
で、実はここに認識のギャップがあって。
我々昭和な人間は、webってのは「情報をくれるメディア」の発展系という認識なのね。テレビのリアルタイムオンライン化。だから自分が何か見てくるだけ、発信した情報を見てもらうだけ、でも何ら違和感ないわけ。従って逆に、反応強制には激しい違和感覚えてキモいって思うわけ。
一方で、昨今の平成若人(w)は「ケータイのメールやりとり」から始まるわけよ。送ったら戻るのが当然。返事がなければシカトされたと憤慨しますわな。で、メールベースの友達ネットワークが出来上がって、みくしに移行。メールを送るという行為はページの公開で代替され、返事待ち。…ほ~ら、こう書くと「反応してあげて当然かなぁ」って思うでしょ?要はそれぞれ「でふぁくとすたんだぁど」に違いがあるわけです。え?それもアリかなと考えてるかって?いやいや。
そこで、人間のコミュニケーションの原点に立ち返って再度事態を概観してみるわけです。人間はそもそもなぜ人間同士くっつくようになったか?一人じゃ生きて行けないから。狩猟採集の時代は人海戦術が一番効率がよいわけです。次にコミュニケーションの形態は?
声を聞いて、目や表情を見て、ふれ合って。
つまり人から人へのアクセスは「しなくちゃならない」ではなく、「したい」「してあげなくちゃ」と自然にわき起こる気持ちによって行われてきたはず。そしてそれは、人間同士が意思伝達に使用可能なあらゆる手段が使われた。
そこからすると、ギブアンドテイクが「義務化」された姿はとても歪んで見えるわけです。心のままにいられず、何か義務や強制が伴うなら、それは「契約」であって友達じゃない。逆に言うと、強制したくなるってのは、そうした天然のコミュニケーションの経験が不足し、心が寂しい状態=「自分を受け入れて貰えているという確信がない」証拠。
声も聞かない。目や表情も見ない。ふれ合いもない。
そういうのがない、「文字だけコミュニケーション」では、人間は満たされんのです。メールだって始めた原点はそうしたコミュニケーション発展への入り口だったはず。それが途中で止まってしまってはね。
ちなみにレムリアと相原は普段9千キロの距離を隔てている上、いつも一緒ってわけでもないけど、強靱な信頼関係を築いてます。毎日メールしてるわけでもない。
これはどういうことなのかな?ん?
注:私は阪神ファンです←しつこい
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