夢のゆめ
きたのじゅんこさんの絵のタイトルみたいですが
(それでこのページ開いた方はこちらへどうぞ)
妻の病院からの帰りを待ち、最近土曜の習慣?になっている「バッタ逃がし」に娘と出る。手のひらでぴょんぴょんしてたくせに、草っぱらで虫かごの蓋開いたら50~100メートル平気で飛んで行く。まぁ大した連中だわ。
帰宅後は鉄道模型いじり。最近発売された名鉄瀬戸線の古い電車のテストランを行いながら、「オリエント急行」の客車をケースに収め、ヲタ本からスキャンしたオリエント急行のポスターをそのケースに貼る。
ん?ん…。
ヲタク頭に構成されているデータベースが何やら確認要求信号を出している。本棚ごそごそ。
「せとでん100年」
にたぁ~。
はい・チーズ。
緑のせとでんと、白いオリエント急行(オステンデ・ウィーン・オリエント・エクスプレス)のツーショット。
「あり得ない」
確かにね。でもこの両形式、製作された年は同じ(1929年)。だから、同じ時空を、ただしユーラシア1万キロを隔てて共有してた。
で、ヲタ本で発見したのがこんなもの。
フランス語が読める必要はありません。PARIS JAPON TSURUGAが読み取れれば結構。
これ、オリエント急行を運営するワゴンリ社が作った「シベリア鉄道で極東・日本へ」の旅行パンフ。
同社は自社の客車をウラジオストックまで走らせる契約をロシア帝国と結び、更にそこから日本海を船で渡って敦賀へ至る旅行プランを準備していたのです。
オリエント急行は当初、トルコのコンスタンティノープル(イスタンブール)を終点とし、ボスポラス海峡を船で渡って、対岸からはバグダート、テヘランへの連絡急行が走っていましたが、ワゴンリ社の最終目的地は、真のオリエント…すなわち極東の都TOKIOでした。上記敦賀までのプランはその途上の代物なのです。
ワゴンリ社は前述のバグダート、テヘラン行きの列車にも自社車輛を用意しました。ですから…ここから先は「if」ですが、敦賀から東京へ向かう列車にも自社車輛を用意したでしょう。すなわち「日本国内仕様オリエント急行」が走った可能性があるのです。
明治政府は当初、東京-大阪間を結ぶ幹線鉄道を、中山道経由で計画、後に現在の東海道本線に変更しました。しかしどちらにせよ、岐阜県内、愛知県内で名鉄線と並走します。
瀬戸線のこの緑の電車は、製造当初は名鉄本線サイドで運転され、中山道鉄道計画の一部である高山線を、国鉄のSLに牽かれて走ったこともあります。そうつまり。
このツーショット、実現していた、かも知れないのです。
最もこの壮大なプラン、その後のワゴンリ創業者の死、日露戦争、第1次大戦と、ユーラシア東西間の距離以上に遠い遠い物になって行くのですが。
緑の電車は瀬戸市内「瀬戸蔵」で。
そしてオリエント急行の客車(プルマン車…ホテルロビーの喫茶コーナーを客車にしたようなもの)は、箱根「ラリック美術館『ル・トラン』」で。
それぞれ、現物に出会うことが出来ます。
世が世なら、並んだ線路を、いや同じ線路を、走ったかも知れない、豪華極まる国際列車と、毎日乗る地元の電車。
でもそれは夢のゆめ。
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