趣味と実益
星が綺麗に見える季節になった。夜空を眺めて歩いていたら井戸に落ちたのは古代ギリシャのタレスだが、自分も人のこと言えない。星が出てりゃ大抵眺めて歩いているからだ。井戸はさすがにないが、犬の(以下略)。
「鉄」は生まれつき(!)だし「虫」も物心付いた時から出来上がっていたが、星についてはいつからかと判然としない。ただ小2で月食を見て自由研究にまとめたことは確かだ。むしろ親の買ってきた図鑑に影響されて次第にその道に、なのであろう。あの時代がサロス的に日本で食現象が多く見られたことも関係している。
しかし「趣味だ」と公言するようになるのは、むしろ「Newton」あたりに影響されてそっち系の論文に目を通すようになってからだ。オリオン座の形を初めて認識して感動した記憶があるが、近眼が出たこともあり、制服着るくらいの歳になってからである。ただそこから主だった星座恒星を記憶するには大した時間を要しなかった。そもそも地図と路線図と駅名をズラズラ記憶している男である。天球図と星図と恒星名大まか記憶するのは大した手間ではない。
で、鉄道だと主として旅行関係でいろいろと役立つのだが、星についてはどうかと言われるとチト困る。時計が無くても方角と時刻の予想を付けられる、とは言えるが、そういう知識が必要になる状況はそうそうない。尤も、個人的には大学で電磁気学を特殊相対論の立場から組み直した珍しいテキストを使った際、当たり前だが理解が容易だった、とは書ける。電磁気学は実はなるほどそっちから見直した方が概観するには都合がいいのである(普通は歴史的な理解の順序に沿い、マクスウェル方程式とベクトル解析から始まり、光の理解へ進む)。
でもそれはそれだけの話で学習の一助に過ぎない。生活という観点から無理無理に理由を付けるとすれば、「ロマンティシズムの味付け」とかガラにもないようなことを書くハメになる。実際新婚直後に富士山中腹まで新妻引っ張り出して、雨降るしし座流星群を見せたりとかしている(2001年)。但し11月の富士山であるから、二人並んで肩寄せ合って、なんて甘ったるい物ではなく、「インスタントカイロをベタベタ貼り付けたベスト」をまとい、寝袋に入って夜っぴて転がっていた。その有様荒野に置いてけぼりを食らったアザラシである。そんなアザラシが数百その場にいたが。
実は天体観測とは殆どがこうしたじっと我慢の繰り返しである。マンガやドラマに出てくるようなビジュアル的美を伴うことはむしろ少ない。そういう不純な動機で天文部のドアを叩くのはお控え頂きたい。ちなみに流星を座って眺めていたらアホと言われる(寝て見上げるもの)。
ただ無形の効果として宇宙を立体的に把握する能力は身に付くとは言っていいだろう。天球に貼り付いている光の点。ではなく、広がりを持つ空間にある距離を介して浮いている光の球、という認識が出来てくるのである。それは宇宙空間に浮かぶ地球というイメージを容易化し、畢竟、「外から自分を見つめる」視点の確保につながる。アホみたいに距離の離れた幾つかの星が己れの運命を左右する…星占いをまともに信じるなんて愚かなこともなくなるだろう。
星は何も決めない。行く先それぞれに輝きを与えるだけだ。
おおかっこよく決まったじゃねぇか。←何が目的でブログ書いてんだこいつわ
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