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2008年3月18日 (火)

ドイツの魂2~ラインの黄金~

ワーグナーの「ニーベルングの指環」は、全演奏時間が15時間に及ぶ壮大な楽劇である。

…ってココログ「鉄」カテから見えたアナタ、逃げるのチョイ待ち。ちゃんと鉄ネタだから。釣りじゃないから。能書き付けないとサマにならないってのが世の中にはあんのよ。
続けますぜ。

4夜に分けて演じられる構成だが、その序夜演目「ラインの黄金」を冠した列車が、ドイツを代表する国際特急「ラインゴルト」である。
設定は1928年。オランダで北海航路の渡船客を受け、ドイツ主要各都市を経由し、スイスのジュネーブまで南北一直線という運転区間である。ライン河畔を主として走るため、そこを舞台とする著名作を列車名に据えた…と単純に考えたいのだが。
実際にはもう少し複雑で深いようだ。紐解くには1次大戦まで遡る。この戦役は「ドイツ敗北」が端的な結論であるが、この終戦協定であるヴェルサイユ条約に、こんな一文がある。
「オリエント急行においては、速やかに運行を再開すべきこと」
戦争終結の条文に特定の列車名が出てくるなぞ、後にも先にもこの時だけである。逆に言うと、オリエント急行という列車が、欧州においてどれだけ重要で、ステータスが高かったかの証明であろう。世界一の列車と称される所以である。
しかしこの条文は、裏の意味を持っていたとされる。すなわち
「その状態でオリ急復活できるかい、ドイツさんよ」
という、要はいじめである。
実はこの戦役に突入する前の1906年、アルプスのどてっ腹をぶち抜く当時世界最長のトンネル「シンプロントンネル」が営業を始めた。世界地図を開いて欲しいが、パリ-イスタンブールを直接結ぼうとするなら、スイスからイタリアの長靴の根元をかすめて、バルカン半島を縦断するのが早道だ。対しオリエント急行が運転開始した19世紀末、繋がっていた線路はウィーンを経由し、アルプスの東側から回り込むルートだ。当然、シンプロントンネル経由のオリエント急行が計画されたが、これを強硬に突っぱねた国があった。ドイツ語でDie im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone、ハンガリー語でA birodalmi tanácsban képviselt királyságok és országok és a magyar Szent Korona országai、
「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」(Wikiによる)…ハプスブルク家の手綱、オーストリア=ハンガリー帝国である。あ、「イシュトヴァーン」で引っかかったアナタ、栗本は全然出てこない。ごめんなさい。
戻る。シンプロンを経由すると、オリエント急行はウィーンを通らないどころか、この二重帝国を掠りもしないのである。このため国際列車会議に圧力を掛け、旧来のルートを堅持させたのだ。対してヴェルサイユ条約が命じたのは「じゃぁ、運転再開させてごらんよ」というわけである。当然ムリで、1919年、シンプロン・オリエント急行が設定される。運転時間は12時間も短縮。当然、旅客はそちらに移動し、シンプロンルートは一躍、「オリエント急行」の主役に君臨する。アガサ・クリスティが小説にしたのもこっちである。
しかも。
「オリエント急行とドイツ」についてはもう一つ因縁がある。そのヴェルサイユ条約締結に先立つ1918年、「まずドイツは戦争やめます」旨の調印が行われているが、これがオリエント急行を組成しているワゴン・リ社の食堂車(車号2419)で行われているのだ。
で、10年の時を経て、ドイツが自ら設定したのが「ラインゴルト」である。ラインゴルト…そのテーゼはこんな内容。

ラインの川底に黄金が眠る。その黄金は3人の乙女が守っている。
その黄金を使って指輪を作る者は、世界をもその手に収めることが出来る。
但し、黄金を指輪に作ることが出来るのは、愛を絶たれたか、愛をあきらめた者だけ。

「ラインゴルト」は走り出す。専用塗色の客車を用意し、内装、サービスも極めてハイクラスのものとされた。機関車は時代時代で最新最速の物が使用され、欧州を代表する列車に育っていった。しかし、ナチスが台頭し、再び戦争の影。果たして、列車が戴いた名に込められた真意はなんだったのか。

そして1940年。フランスがナチスに敗れた時、ヒトラーが「フランスが負けたことを認めます」という調印を行ったのが、なんと、先の食堂車2419である。同じ車輛を、同じ場所に据えて、同じように調印を行い、屈辱を与えたのだ。ヒトラーの執着といえばそれまでだが、そこには当然、「オリエント急行」に対するドイツ側の感情というのが見え隠れする。

しかし再びドイツは敗れる。その直前、食堂車2419は連合軍がベルリンに迫ったと知るや、証拠隠滅のため爆破される。

戦後、「ラインゴルト」が甦るのは1951年。日本がそうであったように、連合軍専用として運転されていた特急列車が一般開放されたのだ。日本では「平和」と名付け、さらに「はと」とした。ドイツは「ラインゴルト」を甦らせた。
ただもちろん、それは由緒ゆえの復活であった。1962年。ラインゴルトは専用客車を用意され、1967年、この仕様に塗り替えられる。
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TEEラインゴルトの登場である。
このドーム展望室はステンレスフレームにガラス張り、隣接食堂車は2階を厨房として料理運搬用のエレベータを備えた。当然、全車に空調が完備された。昭和37年の設計で、である。
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ラインゴルトは突っ走った。古城が残るラインの河畔を、流れに沿う緩やかなカーブを、のびのびと、しかし豪快にぶっ飛ばした。最高速度160キロ。
その美しく繊細で、しかし怒濤のような迫力。他にないドーム車の連結。それは今度こそ、ラインゴルトをTEEの筆頭へ引き上げた。「アキテーヌ」が速度で抜こうと、「ミストラル」が豪華さで迫ろうと、欧州を南北にぶち抜く黄金以上のものにはならなかった、とオレは思う。そして20年間、ラインゴルトはTEEの何たるかを背負い、北上南下した。
そう20年。…つまり、ラインゴルトの歴史は既に終わったのだ。
日本の夜行列車がそうであるように、航空機と、追って登場するTGVに始まる高速列車体系の中で、第1線から撤退することを余儀なくされたのだ。
「全車1等」が条件だったTEEは、次々にその看板を下ろし、2等車を連結したカジュアルな国際特急「インターシティ」(→ユーロシティ)へと鞍替えする。しかし、「ラインゴルト」にあっては、インターシティへ変わることを頑なに拒んだ。全車1等、その矜持を守り通し、最後までTEEを名乗った。
1987年。
TEEは最後の2年を迎える。そのリストの中に、ラインゴルトの名もある。そして2等車が連結されたその日から、列車は「ラインゴルト」とは名乗らなくなった。名乗ってはいけないだろう。その名は歴史に加わった。

今は、戦前の専用車、そしてこのドーム車も復古保存され、観光クルーズ列車として、

…相変わらず豪快にぶっ飛ばしている。

鉄道史の黄金。ラインゴルト。

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