BMWに10年乗って
元からそうでも、そうでなくても、男性の多くはクルマを駆るようになると凝り性を発揮する。
方向性はクルマとしての原点である走りであったり、装備であったり、豪華さ大きさの方向であったり、様々だ。
オレも弟もメカ好きな若者であったから、その興味は「走り」に向いた。走る曲がる止まる。原点としての走行性能だ。雑誌を見たりテレビ番組を見たり、あれがいいなこれは凄いな。
そんなオレたちの心を捉えたクルマがあった。
BMW
Bayerische Motoren Werke AG:バイエリッシェ・モトーレン・ヴェルケ・アーゲー…バイエルンエンジン製造工場
名の通りエンジンメーカであり、まずそこにこだわる。クルマの動力は原動機たるエンジンから生まれる。そこにこだわるのは当然の発想である。
次に動く機械として、クルマの中心と重心を揃えた。前後質量配分50:50という思想だ。すなわち走る機械のあるべき姿を原理に基づいて求め、そこを出発点と置いたのだ。
理にかなっているではないか。
加えて、父親にくっついて通っていたゴルフの打ちっ放しすぐそばにディーラーがあった。新車はさておき、認定中古の価格は魅力的に映った。乗っていた国産車新車価格にチョット上乗せのプライスカードがフロントグラスにあった。
その国産車が経年10年になった。部分部分にサビも出て、エアコンも不調。そろそろ買い換えだ。
そこで。
「検討対象に入れてみないか?」
父親を誘ったらあっさり乗った。1997年秋口の話だ。ゴルフの帰り、中古車コーナーに寄ったらこいつがいた。
BMW 320i(E36) 1995年。
ワンオーナーカーであり2年落ち。Breytonの手により空力および足回りにチューニングが施されていた。ブレンボだビルシュタインだ、雑誌で見た名のパーツがそこここに配されていた。予算より高かったが、これだけ手の入った状態なら話は別だ。
「試乗如何ですか?」
イグニション・キーを回す。原動機が轟いて始動した。
それはエンジンに「またがる」感覚であった。ドライヴシャフトがボディの下を貫通し、ディファレンシャルを通して後輪を駆動する「動き」を身体に感じた。彼はガソリンで動く競争馬なのであった。
国産車は一気にもっさりした色あせた存在に変わった。
「踏み込んでみてください」
ディーラーセールス氏は信号発進の機を捉えてそんなことを言った。
言うであろうか。国産車のディーラーが試乗の際にそんなことを言うであろうか。
果たして原動機はスロットルの開度に呼応し、回転計を跳ね上げる。エグゾーストノートは僅かな車体の震えと共に、重心の低い唸りを伴い、連続する爆発音は、メカニカルなハーモニクスとなって、それはそう、音楽を奏でる。
航空機のエンジンに似た「一つ次元の違う」高速回転の領域。
そう、このクルマの原動機には、その出自である航空機エンジンの血脈が受け継がれていたのだ。
剥き出しの原動機とも言うべきその有様は、父親の「男」をも刺激したようである。頭金をオレが持ち、彼は我が家へやってきた。
しかし。
「こんなの乗れないよ」
大口径ホイールに扁平タイヤを履き、ローダウンされたクルマは母親の意に沿わないのであった。果たして国産の所有は継続され、彼は息子たちの愛機となった。
息子たちは彼を「オレたちの動く城」に変えた。折半でナビを積み、高品質なオーディオを備え、リアウィンドには「たれぱんだ」が乗った(笑)。
そして、走った。
思い描いたとおりのルートをクルマはトレースした。思うままに車が走る。それは本来持つべき基本であると共に、快楽であった。エンジンは応え、4輪はクルマの挙動はおろか、己れ自身のグリップや荷重の状況さえドライバーに伝えてくれた。安定限界や遠心力の限界は身体で覚えた。ドリフトまで持ち込みはしなかったが、逆に粘着を失わない技術を身につけた。クルマに教わったのだ。ドライバーを育てるクルマであると知った。それは…駆け抜ける歓び-同社のCMキャッチそのままの感覚がそこにあった。「乗りたい、クルマを動かしたい」衝動のままに山野を駆けた。お前さえいればいい、そんな満足感すら覚えた。ひとりで、兄弟で代わる代わる、時に助手席に長い髪の姿もあり、彼と共に過ごした。美ヶ原へ駆け上り、湘南の潮風を吸った。
もちろん、トラブルはあった。中の液晶表示のセグメント欠けなど些細な物から、ABSユニットの不具合。太いタイヤを駆るせいかデフが焼けた。ゴムなど経年劣化部品は多く、その交換周期は決して充分に長いとは言えず、少なからず高価であった。「飼育する」クルマなのであった。タイヤもピレリ。それら交換に要した費用通算では…フフ、無粋なこと書いちゃいけない。
2001年。
兄弟とも結婚が決まり、弟はクルマメーカへ就職したこともあって、彼はオレの元へ来た。息子が親の車を永久に借りておく…良くあるパターンで彼はファミリーサルーンになった。キーレスエントリーとチャイルドシート、ETCユニットが追加された。
タイヤのフチが削れるような走りはしなくなった。代わりに高速ツアラーとしての役目が彼に求められた。260まで刻まれたメーターは、ディーラー氏曰く210でリミットされるという。そこまで回したことはないが…アウトバーンに応じた設計は随所に感じた。富士山に登り共に流星群を眺め、経年で路面の荒れた中央道を、しかしストレス無く東上西下し、知多半島を南端まで馳せた。
やがて同じく車高の低さゆえに嫌がっていた妻も、おっかなびっくりステアリングを握った。当初右左折時にワイパーを回したこともあったが、程なく乗りこなした。「意のままに駆る」…逆に楽であったかも知れない。
しかし。
オドメータが11万を回る頃から、交換部品が次第に「重要な」内容に食い込み始めた。エアコン、冷却水ポンプ、吸排気系。2008年には始動不可の事態が訪れた。最早E36は時代に取り残されたクルマになっていた。それ以上乗るならば…可能ではあろう。しかし省エネのゆえにその間進化した、国産の新車価格と比してどうか。
「これでバイバイだよ」
この時彼のいるべき場所には、既にトヨタが止まっていた。
原動機に火を入れる。何年ぶりであろうか。彼と二人きりとなり、そしてもう再び通ることはないであろう、夜の中央道をオレは駆った。そして今あらためて、彼の動力システムは「1人のドライバーが意のままに」操るためにバランスしていることを肌で知った。
翌朝。
ショップでオーディオやナビを外され、「無垢の走る機械」に戻った彼は、散りしだく桜の下、弟のランエボと合わせた顔が、少し穏やかになったようにも見えた。
彼を「買い取る」という業者の類はネット検索する限りは見つからなかった。逆に処分費用を頂きますという会社すらあった。その中にあって、最初に彼がいたディーラーにほど近い業者はこう言った。
「BMWでしたら、走れば無料で引き取ります」
夕刻、彼は桜吹雪の下を離れた。
僅かな旅路、ただエンジンのみとなった彼と走った道を思った。そう遠くへは行かなかった。ただ、ステアリングはキリ無いほど回した。
「では、こちらにハンコを」
父親の名が刻まれた実印が押され、彼のキーはオレの手を離れた。
駆け抜ける歓びよ、さようなら。君は確かにオレの人生の主要な一部であった。そしてオレにとって、君はクルマ選びの永遠のリファレンス-。
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結局、ゴミになったてことですね
投稿: | 2013年2月 2日 (土) 00時41分