vs.30年前
腰からの危険信号と腹痛が出て会社サボってしまった。
考えれば月に1度はこんなコトをしている。最も有給休暇は年に20日であるので、休みすぎということはない。
原因だが、椎間板ヘルニア→座骨神経痛から、会社でズーッと座っている→腰の疲労蓄積というのは一つある。
問題はもう一つ上げられること。
もう一つ。
「おとうちゃんあそぼー」
認めたくないが、どうやら「育児ストレス」と言わざるを得ない要素がありそうなのだ。
「お前電車いじりしたいだけだろ」
そうではない。妻とも話したが、要するにこういうコトだ。
・遊び相手が親ばかり
・遊ぶ場所がない
・遊べる場所に親が連れて行く必要がある
・親がそばで見ている必要がある
自分が子どもであった(そんな時代もあったんだよ)30年前、「遊び相手はいつも親」ということはまずなかった。電車のオモチャかミニカーで一人遊び。さもなければ裏手の草っぱらでバッタ取ってた。
女の子の一人遊びといえば、「ままごと」「人形遊び」が代表であろうが、娘は生憎とどっちもやらない。
お絵かきは好きそうだ。でも根本的に身体を動かすのが好きなタイプで、一人よりみんなと、というタイプである。
しかし、周りに同年代の子どもはいない。
公園はあるにはあるが、行ってもいつも誰もいない。
いつも誰かいる公園は、クルマで連れて行くような距離。
どこに犯罪者がいるか判らない。子ども一人では遊ばせておけない。
結局、方々からクルマで来た見知らぬ子ども同士が遊具でわいわいし、それを多くの大人が周囲から囲んで眺めるか。
「おとうさんあそぼー」
に行き着くのである。
これに「ゲーム」が一つの回答であることは論を持つまい。が、ゲームは出来合コンテンツをこなすものであって、創意工夫を誘発するモノではない。もちろん、「ゲームをクリアする」という行為に工夫が必要と書けなくはない。しかし、所詮そのゲームで可能な範囲という制限が付く。里山と肥後守で得られる世界とは比べものにならないのである。
またゲームは「陳腐化する」という困った側面がある。出来合コンテンツは次々に消耗することを求める。引き替えに前が古くなって価値を失うのである。このあたり、蒸気機関車を20年持っていても価値が変わらない鉄道模型と相反する。これはゲームに世代を超えて通用する普遍性(ホラまた出たよ)が有るようで無い事を意味する。「ゲーム」自体は普遍的だが、「古いゲーム」が「新しいゲーム」以上の価値を持つことはないのである。プラスティックに収まった電子回路とソフトウェア、という点では、どのゲームも同じなのだが。
DSはある。「やりたい」という場合には時間を決めてやらせている。ただ、数多ソフトの存在は教えていない。まだ字が満足に読めないという部分もあるが、積極的にはゲームをプッシュする気はない。それよりは「プリ」の歌詞諳んじている方がマシだし、カマキリが唐揚げの肉をガツガツ食ってるのを見せた方がマシだ。
時代は変わったのだ。「とりあえず放っておいて良い」時代ではないし、帰った子どもがカバン放り出して即座に飛び出して行く世の中でも無くなった。
「おとうちゃんあそぼー」
休み取りつつ、もう少し、もう少し。小学校に行くようになれば。
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