オリエントエクスプレス’88
パッケージを箱から出して。
蓋を開けて。
ニヤニヤする。
鉄道模型をいじる人間に見られる典型的な変な瞬間である。
時折そこに恍惚の時間が加わることがある。 名車が匠の腕で「持つ喜び」を感じさせるモデルに仕上がった時である。
オリエントエクスプレス’88。
Nゲージ鉄道模型の日本におけるパイオニア/リードメーカー「KATO」が、日本の精密技術ここにありとばかり発売した、渾身の走る伝説である。団体観光列車として欧州を走っていたノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス(NOSTALGIE ISTANBUL ORIENT EXPRESS/略N.I.O.E.)が、ユーラシアを横断、日本に上陸した、「パリ発東京行きオリエント急行」の日本国内走行仕様を模型化したものだ。
「オリエント急行」自体の概要は過去記事をご覧頂くとして、ここではまずN.I.O.E.と、その来日の背景について、少々鉄分を濃くして書いてみたい。
この列車は1976年、スイスで旅行会社を経営していたアルベルト・グラッツ氏(読み方で発音は色々違う。気にするな)が、オリジナル「オリエント急行」の衰退して行く姿に心を痛め、当時欧州で現役だったワゴン・リ客車を購入して運転開始した列車である。それは「どこかに行くためにこの列車に乗る」のではなく、乗って移動して降りて観光、を繰り返す、観光バス……失礼だな、客船の世界クルーズと同じコンセプト。「銀河鉄道999」に近いと言った方が判りやすいかも知れない。
これを日本へ持ってこよう、と考えたのは、オリエント急行の特集番組を作ったフジテレビのプロデューサー氏。氏によれば、オリエント急行の終着はイスタンブールのシルケジ駅。すなわちボスポラスの欧州側であって、その向こうであるアジア、「真のオリエント」にはたどり着いていない……という事実に心動かされたのだという。
1万キロを列車で走るという一見突飛な発想。しかし実は、パリから極東へ列車を走らせようという試みは、この時が初めてではない。
これは1900年パリ万博に、ワゴン・リ社が展示したポスターである。「TSURUGA」の文字が読めるであろうか。
敦賀。このポスターはシベリアを横断し、明治政府が国際貿易港に指定した敦賀港へ船で入るという、日本旅行計画の紹介なのだ。当時飛行機は黎明で(ライト兄弟が1903年)移動手段ではなく、北極航路は開設前。シベリア鉄道が全通すれば、列車で極東へ抜けるのが、突飛でも何でもなく最速手段だったのである。ちなみにこの時、シベリア横断仕様の客車も同時に展示しており、これはドイツ・トリックスの手で模型化されている。
しかしこの計画は程なく勃発した日露戦争、そして航空機の発達によって長い眠りにつく。80年を経て実現したのが「オリエントエクスプレス’88」なのだ。
模型に行こう。来日仕様であるから、ステップを切除し、台車はTR47である。
まず、この出会いをやってみた。右側は同じような復古列車だが、カレー=ヴェニス間で定期運行しているヴェニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス用バーサロン車。
全長・全幅はほぼ同一であり、KATOは今回1/160スケールで模型化したことが判る。
食堂車の表記とサボ。スーパーマクロモードなので歪んでいるが気にするな。
食堂車の中身。うう、指紋が付きそうでバラすのが怖い。え?この席配置どこかで見覚えがある?そいつは北海道を走ってなかったかい?
(ポスター出典元:教育社「オリエント急行」1985年)
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