ゲームの功罪3
「罪」
佃煮にされお裾分けしても尚余りある幾多の既存意見は書かない。ただ、この二つだけ挙げたい。
1.勝ち負けだけのコミュニケーション
確かに「みんなで遊べる」要素はあるのだが、「ゲーム」であり「勝負」である。従って、そこで交わされるコミュニケーションはこれである。勝ったか負けたか。勝てば優れていて負ければ劣っているのである。
これは最もなようでいて、全て正しいわけではない。
確かに「勝利」への意欲は種々の場面でモチベーションとなり、そのための知恵や工夫は人類を進歩させた側面はある。だが待って欲しい。実はそれ以上に人類を進化させたのは協力と協調だ。マンモスのような大型動物の狩り、寒冷の克服、猛獣への対処、農耕牧畜など、人類の生活様式は、集団で分担と協業をしないと成立しなものばかりだ。核家族の子育ては両親とりわけ母親に非常な負担を強いるものだが、これとて物資豊かな現代だからこそ核家族でどうにか成り立っているのだ。飢餓と隣り合わせで決して清潔とは言えず、猛獣が闊歩した原始は、「一族」という単位で子育てしないと、子どもが育たなかったに相違ないのだ。つまり、「優しさ」である。優しさが何であるかは、自分の振るまいを人から優しいと言われて初めて知るものだが、優しくされたことのない人間は、優しく振る舞うことは出来ない。子どもが育つことが出来るのは、乏しい食料を分け与える優しさが共存していたからと言って良い。逆に言うと子どもの頃は目一杯優しさを受けるのがあるべき姿であり、その体験を持って、人格も優しく形成されて行くのではないか。翻って、ギザギザのノコギリで互いに削り合い、尚持ってボロボロになった歯で更に傷つけ合うような昨今の子ども社会の殺伐は、こうした「早すぎる競争の投入」が背景にあり、それを受け入れる下地になっているのが実はゲームだと言ったら言い過ぎか。でも、引っかかるのだ。子ども同士で勝った負けたと罵りあい、他の子を下に置いてカタルシスを覚えるなんてことしなくてよし。そういうことは出来上がってちょっとやそっとじゃへこたれないやーらしー大人がすることだ。うんそう、ゲームの「功」で共通集約を挙げた。しかし共通集約で最も必要とされる要素を排除してしまうのがまたゲームだ。何という矛盾。
2.創造力の減退
情報を集約して知識とし、知識に基づいて「工夫」をし、新しい何を創り出す。これを「創造」という(カッコイイ~←バカ)。創造は人間が他の地球生命とひと味違うところである。
ゲームをクリアするには相当に頭を使う。敵のタマに当たらないように持ち駒を最大限生かして「工夫」をする。ただそれはクリアするための条件を探し当てる行為に過ぎず、その条件も人間が仕込んだものである。セットされているモノ以上の何かを新しく生み出すことはない。アイテム集めてもプログラムされたこと以上のことは出来ないし、
する必要もない(これ重要)。
対しゲームがない時代の「遊び」は、手持ちの全てと大地自然とで、「どうすれば楽しいか」工夫をした。同じコトの繰り返しは飽きを呼び、新しい刺激を欲し、冒険へ駆り立て、そして独自の遊びを生んだ。鬼ごっこの変形である「高おに」「色おに」更にドッジボールの要素も含んだ「6むし」など典型だろう。必要は発明の母、然りである。対しゲームの中で新しいゲームを作ることは出来ない。
で、翻って最近の若者は会社に入っても自ら動かない。指示待ちマニュアル人間が増えたと言われて久しい。これも説明書通りに操作し、最終目的が指定された世界に慣れきっているせい、と言ったら言い過ぎか。例えば鉄道模型の線路配置は「自分で好きなように」が基本だが、
「好きなように」と言われるとどうしたらいいのかピンと来ない
らしいのである。「オレだけ鉄道」を作れるのが醍醐味の趣味なのに、他人と同じコトして何が面白いのだ(同志諸君、いわゆる「実物厨」はまさにこれだ)。……ふと思ったが、女性と付き合うのが億劫と感じている男共、まさか恋愛ゲーム通りに動けば女性は付いてくると思ってるんじゃあるまいね。
必要とされる優しさは、持ってる優しさのバリエーションをフルに活用し、そこにオリジナルを被せてこそ「オレらしさ」となって女性に届くもんだ。そのためには、目一杯当たって砕けなくちゃ。優しさは痛みの裏返しでもあるんだから。なんてな(^^)
え?オチがない?うん。もう一回
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