ゲームの功罪4
最早ゲームを「避けて」行くことは不可能であろう。どうやったって子どもの目に入るわけだし、羨ましがるし欲しがる。「あいつだけが持っている」のと「あいつだけが持っていない」のとではワケが違う。超然性が必要と書いたが、子どもはそれを持たない限り、「持っていない」をずっと言われ続ける。劣等感を抱かずに済むのは稀だ。どうしてもと言うなら、他に夢中になれるモノを見つけるより手はない。
そうでないなら、「あるもの」として受け入れ、つきあい方を模索する方が、楽だしポジティブではないのか。
てなわけでオレサマ的結論である。まず、ゲームで第一にやり玉となる夢中になりすぎる云々は、親子の約束とすべき次元だ。先に書いた携帯電話の扱いと同じである。約束を守るのは大人の一歩。第一、のべつゲームしてる人は見苦しい。ダサい。
そして、功罪の罪への防塁。それは
「所詮、ゲームはカリカチュア」
と判らせること。世の中をモチーフにちょん切って制限付きで押し込んだのがゲームの中の世界なのだ。どんだけ名作と呼ばれるゲームであっても、自然そのものに比べたら遙かにツマラナイ。
こう書くと開発担当さんには屈辱かも知れないが、スケールもバリエーションも要するにみみっちい。「可能性」なんて視点で書けばゼロだろう。そんなモノ「だけ」、それ「しか」夢中になれないなんて、可哀想以外の何物でもない。
裏返せば、徹底的に自然に触れさせろ、ということになる。機械的にエサをやっても虫は育たない。身に覚えが無くても死ぬこともあるし、死んだ命にコンティニューはない。
ゲームの延長線に世の中を見ると、ゲームの外伸でしか捉えられず浅はかになる。対し足元から空の上まで見ていたならば。
ゲームは全部やっちゃえば終わり。自然は知れば知るほどもっと面白くなる。そして人は自然の全てを知っているわけではない。「人類は地球を踏破したつもりだが、知のフロンティは広大無辺」とか書いてる雑誌もあった。
君にゲーム機は宝箱に見えるかも知れない。でも君は、実は有限だが果てのない宝箱の中に暮らしている。
そのことを知るのは簡単だ、振り向いて、見回せばいい。
オレは君の「おとうちゃん、なんで?」が好きだ。
(おわり)
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