はなれてつながる
卒園式。
キリスト教(プロテスタント)系であるから「つながり」は大切にしている。神が、イエスが見守るという視点は、魂のつながりが前提にあるからである。
妻と娘がえぐえぐしている後ろで、インカメラ編集状態でクールにビデオカメラを回すオレサマ。
諸手続で頭がいっぱいというせいもあるが、この転勤余りセンチメンタルな感情は生じてこない。子どもの頃から「転勤・引っ越し」に慣れていてすれっからしという説もあるし、端的には「在所」に戻るに等しいというせいもある。そもそも鉄道ベースでその土地を見ているので、何処行っても勝手が判らず狼狽えるという事態はまずない。
しかし多分、この感情の最大の根源はこれだ。
「じゃ、この写真メールで送るから」
電子メールとインターネット。
人はコミュニケーションを求め、他の動物に比してずば抜けたそれによって「群れとしてのシナジー」を獲得し、繁栄を築いた。人と人のネットワークに礎を置くキリスト教の概念は、この人類原点の転写を意味し、ゆえにここまで広がったと解釈できる。
勝ち負けで語られる、生き馬の目を抜く現代社会において、こうした人の「群れ」性は失われてきたかに思える。しかし「ネット依存症」のコトバに示されるように、バラバラにされたからこそ、それを繋ぐネットワークに人は集まり、「ことば」に主眼を置いたコミュニケーションにシフトした。
リアルは群から個へ。
代わりにヴァーチャルは群へ回帰。
これもパラダイムシフトと呼ぶのであろうか。
言われる罪はいろいろ多い。しかしヴァーチャルのネットワークはリアル光速で人々を結ぶ。それは人の心と心を触れ合うことなく直接繋ぎ、距離があっても時間は要らない。
「目には見えなくても繋がっているわけだし、会いたくなったら新幹線に乗ればよい」
立ち現れたのはそんな物凄い自己認識。ああ、だからオレは感傷的にならんのか。
娘が卒園祝いにもらった聖書。
保育中に引用した聖句全てに赤鉛筆が入っている。卒園児全員分に手作業で引いたのである。
新約よりこの幼稚園の基本コンセプトであろう一節を引く。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。-光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」
(エフェソの信徒への手紙/5章8節より9節まで・新共同訳)
-千葉には「のぞみ」で行くけどな。
※いわゆるテレパシー能力をこの「つながり」の顕現と解釈し、解説する向きもある。すなわち神というホストコンピュータであり、個々人というネット末端のコンピュータである。「つながって」いる。だから、「わかる」という説明である。
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