運動会なんか行ってみる
こんち千葉の小学校は春に運動会。
1年生には入ってすぐで右も左もだろうし、6年生も最上学年がピンと来ないうちに、「小学生最後の運動会」と言われても、「何だかなぁ」じゃないかと思うが。まぁ春の方が都合がいいからそうしているんだろう。
さてこの運動会、娘がダメ元で出した「招待状」にじいじが反応。金曜夜に急遽参加が決定。でも娘に内緒のサプライズ。
メールでイマドコ連絡やりとりしつつ、学校へ向かうと、子ども達がワイワイ言いながら自分のイスをめいめい運動場に運搬中。教室から持って行くわけだ。
桜の木の下にレジャーシート広げてどっこいしょ。
「せんしゅ、にゅうじょう~」
かわいいウグイス嬢の放送に子ども達がトラック内部へ。石灰で引かれた白い線。行進で舞い上がる砂埃とその匂い。ああこれぞ小学校の運動会。変わってないね。ナニもかもが懐かしい。
開会式のショットを狙いに、ビデオとデジカメ撮影機材両手に抱えてポジション探し。自分が被写体だったのは30年前だったが、変わったコトのひとつがこのデジタルメディアの台頭と伴う親どものウロチョロ。
「校長先生の挨拶……」
背の低い娘は一番前。「一年生」のプラカードを持った6年生のおねーさんのすぐ後ろ。
朝礼台の後ろからズーム噛まして望遠ショット。ええ勿論「親カード」首から下げて撮ってます。変わったコトのもう一つ。
「PTAの会長挨拶……」
義務教育9年間でこの手の挨拶で「心に残った」「覚えている」モノが一つでもある方コメ下さい。賞賛します。
「……保護者の皆さんにお願いです。条例で校内は禁酒禁煙」
これも変わったコトに入るだろうか。まぁ子ども達そっちのけでいい大人がへべれけで車座ってのはビジュアル的にハシタナイ。
じいじと合流、子ども達は演技に入る。娘は1年坊主であるからして、徒競走と玉入れがメイン。後は学年ぶち抜き全員参加と踊り系。
出番待ちも退屈なので他の競技見てみる。……なんだろうこの違和感。
ひとつ、子ども達の体格。昔に比して背が伸びた言われるが、逆の印象。小柄で何と言っても「華奢」。手足がすらりと長いから背が高いように思えるだけで、実際には細いのだ。オレは小学生時分背が小さい方だったが、そのせいで印象が増幅されたのだろうか。ちなみに、女の子は大人びるのが早い。
もうひとつ。明らかにBMIの大きな子が多い。
「位置について、よーい」
走る。……遅い。小学生の全力疾走はコマネズミががむしゃらに、という印象だが、手足の回転が「もっと早くなりそうなはずなのに」「力学的に無駄が多い」そして「持久力がない」。80メートル100メートル如き、ゴール前で失速する。
ひとつ。根本的に外で遊ぶ機会が少ない。ひとつ。例えば野球中継など「人が全力疾走する」姿を見る機会が少ない。好きな選手の一人もいて追いかけていれば、その身ごなしを自然と身体が真似をするものだが。
少し不満。いや子ども達は一生懸命なんだが。記憶の中の映像と違うから。変化の方向が生物的に……まいいや。
「1年生初めての競技です」
娘さんの徒競走である。ビデオを妻に預けてこちとらデジカメ。ゴール前に陣取って連射を噛ます。
かしゃかしゃかしゃかしゃかしゃ……これも変わったコトのひとつか。
順位は思わしくなく娘ションボリ。そこで、席へ戻る煤けた背中にじいじが一声。
(・_・)→ヽ(*゚O゚)ノ
テンションハイ。そうだ。元気に行け!
踊りをやって午前終わってお弁当。
「おじいちゃん来てくれたの?」
おむすびに、鶏の唐揚げに、ソーセージ。
しかし娘はくつろぐでなく、食うだけ食ってダッシュ。まぁ、親とまったりするより遊びたいわな。
午後は玉入れ。身体と腕が一緒に動いて足も思わずピョンと飛ぶ、という女の子の典型的な投げ方。まぁボール投げは教えてないからねぇ。一方男の子達はさすがというか。
一年生はコレで終わりだが、折角なので高学年の器械体操を見る。じいじと並んで部外者評論。まぁ昔と演目はだいぶ違うが、「俵」(ピラミッド)など定番健在。ただ、「ぐしゃっと潰れる」はやらない。逆に女の子もいっしょにやる。21人組3段重ねで上に立つ。塔とかタワーとか呼ばれる類。大したもんだ。ぱちぱちぱち。
最後の大目玉は当然リレー。4~6年学年ぶち抜き男女混合代表リレー。
代表なのでそれなり実力派揃い。長丁場なのに大差が付くでなく、案外競って楽しめた。
で、気付いたこと。
「走ってて転ぶ子いないね」
リレーは勿論、徒競走、障害物でも一人も転ばないのだ。華奢=身軽なのか。靴の性能がいいのか。遠心力過大になるほど速度が乗ってないのか。F=mrω^2
以上、気になったので思わず色々書いたが、根本的にここは「競わせる」という運動会の原点を守っていてホッとした。体格差や能力差は有って当然。これは個性の尊重に繋がるし、努力の導火線になるのだ。無理くりこじつけて「みんな一緒」は間違いである。差を認識し、差を認め、差を埋める努力をする。その辺の捉え方こそが「みんな一緒」であるべきだろう。
所属チームが勝利して娘はぴょんぴょん跳ねて喜んだ。それでいい。
じいじ遠くからありがとう。
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