死生観【心と体】
仏陀(一発目からスゴイ単語)の言う悟りは死への恐怖を超越した状態で、それには執着を捨てなさいと説く。
死への恐怖はどこから来るのか。
死の恐怖の根源は自分の消滅である。今ある自我が消えて無くなる、それっきりで元に戻らない。
これは人格という存在への気づきがなくてはならない。自分たちも生物の一範疇で、死ぬのは当然という認識であれば、人の死も他の生物も区別されない。そして、死して土に帰り、他方で生まれてくるという現実が存在する以上、人格の不連続性は認識されない。
この点で縄文人が埋葬した理由を考える時、不連続である「終了したモノへの感謝」というより、循環する存在としての「再来」を意図したと考えた方が自然な気がする。貝採集の周期性、狩猟採集社会においては取ってくる人手の数勝負という側面からも、恐怖の裏返しという意図は無いのではないか。
「衣食足りて礼節を知る」というが、食えるかどうかが一義の時代。礼節が心理の充実を意味するならば、この時代人格について思うほどの余裕があったかどうか。
死にたくないんじゃない。生きたいのだ。
« どうでもいいこと三題 | トップページ | 死生観【心と体2】 »
コメント