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2010年2月10日 (水)

死生観【人が人を殺す時】

弥生・古墳時代へ行く前のツナギ。
 
根本命題。人が人を殺すのは何故?
 
動物の行動は大抵、必要に基づく。実際、人も食うために動物殺す。昨今クジラがどうの言ってるが、動物殺しに差違はない。
 
じゃぁ人間が人間殺すのは食うためか。
 
yesでもありnoでもある。
詳しく書く気はないが、カニヴァリズムは「他に食う物がない」状態まで行かないと発生しない。呪術としてのそれは死と霊の結びつきが発展したもので、むしろマヤ・アステカに見られる祭祀に近い。ここで書こうとしているダンドリとしては、弥生・古墳時代の死生観の後に出てくる。従ってnoである。
 
しかしその前には他の村や集落からの簒奪において、部族内での口減らしとして殺人が発生する。後者が姨捨伝説に名残をとどめているのはご存じの通りである。こちらはyesである。

「自分が生き延びるための手段として」他人を殺すのだ。ここで生じる死は、無駄ではないが、死自体には価値も意味もない。
 
ところで。

最近いろんな文献見て思うのは、こうしたある意味「必要な」殺人は、狩猟採集よりむしろ、安定を確保したはずの農耕牧畜時代になってからの方が生じたんじゃないかということ。原始人の繁殖指向×食料の大量確保は、当然過去にない人口増加をもたらしたに相違ない。しかし地球の気候は世代スパンでは結構フラフラするもので、調子に乗って人口増加、狩猟採集なんか完全忘却……ってなタイミングで凶作が生じれば、大量の人間がいたらあっという間に備蓄底付いて飢餓に転落、されど狩りの伝承は絶えて久しく、食える木の実も知らない。と、こうなる。もちろん、飢餓の状態自体は狩猟採集の時代の方がはるかに多いのは多かっただろう。でも根本的にのべつ探して歩いていたってのが実態だから、飢餓であろうとなかろうと、探し歩くこと自体は変化がなかった、と考えられる。対し農耕牧畜は、同じようなことをしているのが同じような場所に集まっていたはずで、隣にはまだ残ってるんじゃないか。ならば、という流れになっても変ではあるまい。
 
この結果、農耕牧畜のみならず、自分だけの蓄えを欲しがる動きが当然出てくる。農耕牧畜を行わず、簒奪だけで食いつなごうとする動きもまた出てくる。
 
神よあなたは人にムギやコメを与え、権力と戦乱を生み出したのか。

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