死生観【古墳時代】
「霊」という概念は死への恐怖から逃れるための発明と言われるが、ここでは最前までの考察から王権の外申で、万物を司る神という存在に「不可視の人格」を与える必然と定義する。翻って、大きな権力は神への接近、神との同一視となって、死後にその神となる…霊だけに昇華することが許される一方、戦乱の有様から敗者は死であり死は敗者であり、消滅であると捉える。
この論法で行くと、霊だけ残る、が先に生じ、消えるが対極として生じる。残る、があるから、消えるがあり、それに思いを致せば怖い、とこうなる。
巨大な墳墓はその多くが「肉体から霊的存在へ昇華する」トランスレーションの場として作られている。死後の世界の指南書(死者の書)、魂の出入り口設置、死後の生活物資埋葬、奴卑の殉葬、兵馬俑…全てそういう意図である。
で、デカいのは権力の誇示とか、自身のモニュメントとか言われるが、神になると約束された人物が現世にこだわりを持つだろうか。ピラミッド(墓とせず魂の出入り口と仮定する)は、農閑期の公共事業の意味もあったと言われるが、そのような必然性からデカくしたと考えるのが自然ではないだろうか。
仁徳天皇陵は言わずと知れた日本最大の墳墓だが、日本書紀の物言いが正しければ144歳まで生きたことになるのはさておき、崩御は西暦にして399年とある。この頃の気温をゴソゴソ調べると、現在よりかなり低かったと出てくる。すなわち冷夏凶作が続いた可能性が大で、功績とされる租税免除、各種潅漑事業なども、それが背景ならばなるほどと頷ける。で、墳墓が大きいのも…まぁ仮定だけど。
王様は神となる。王でない者は消え去るのみか?
「恐れることはない。執着を捨てなさい」
宗教。
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