書物はデータかそれとも紙か
とりあえず「夕刊」を切った。
新聞記事でどうあがいても他の媒体で補えないのは4コマ漫画と広告くらいだからだ。報道ならむしろネットのほうが早い。社説などオピニオン的な内容は確かに各新聞社独自だが、バイアスの掛かった「論調」よりも、羅列された単なる事実の方が自分自身考える余地があるというものだ。天声人語が試験問題に重用されたのは遠い昭和の話(皮肉だよアサヒさん)。
お話を書いてる身としては「本」という媒体はひとつのゴールの形態ではある。
だが媒体として必然か?と考えるとバキバキ言うほど首を傾げることになる。
「本」は「本」でしかない。
「データ」は手持ちのデバイスが媒体になる。
「ラブプラス」ばかり並べているが、全部デバイスが違うことに注意願いたい(例によってクリックで当該記事にジャンプ)。
「ユビキタス」というコトバは死語なのか定着して意識されなくなったのかどっちかワカランが、書物の電子化はすなわちユビキタス化に他ならない。「見てもらう」立場としても「見る」立場としても、これはありがたい。デバイスを拘束しない、拘束されない。お好きなモノでどうぞ。
メリットばかり書いてる気がするが、デメリットはなんだろう。やはり「実体がない」ということだろうか。目には見えるが触れない。
「お前音楽はCD派言うとるやん」
その通り。ただそれはフルビットでDL出来ないから。「オレが買った」と自己認識できる確たるものが残らないから。
そして「ユビキタス」じゃないから。
配信音楽データを、ホームオーディオ、カーオーディオ、ヘッドホンステレオ…ハイクオリティな「源流」のまま持ち歩けるか、取り出せるか。「否」だろう。
ネット上にあってライセンスを購入すれば無限にアクセスできる…それが出来ないから、代わりが「媒体を買い、持ち歩く或いはデバイスにコピーする」状態だ。最も、無限アクセスは実は特定ジャンルのラジオ局とか有線放送にオンデマンド化の要素を加えただけであって、先祖返りなのかも知れないが。
そう。音楽配信の現状は「中途半端」なのかも知れない。
戻って。
買っても(創作しても)実体のない書物に「オレが買った」自己認識を要求しないのは何故だろう?同じデータでも、音楽は見えないが書物は見える。「実体」はないが「不可視」でもない。それはあるかも知れない。
「保有欲」(コレクション性)への訴求力も異なる。音楽の場合、「質」が再生デバイスに依存する。文書は何で読んでも一緒(画質、という尺度はあるが、文章のみなら無関係。ラブプラスもキャラとの付き合い方が変わるわけではない)。この状態で音楽には「原盤」という価値観が発生する。またその原盤は媒体しか入手方法が存在しない。
持っているに越したことはない vs. 持ってなくても変わらない。
ちなみに、音楽で原盤に価値観を見出さないなら、その時点で文書と同一の存在になることは言うまでもない。「聞けりゃいい」なら「読めりゃいい」と一緒だ。オレは多分、その点で音楽と書物に差を見いだしているのだろう。音楽はデバイスから取り出された時点で音波となり意味を持つが、文書は脳内で画像に起こされて初めて意味を持つ。逆に言うと文書は「脳内変換」でどうにでも変わるものであり、「質」の介在する余地はない。
結論:紙である必然性はない。電子化を否定する必要はない。
しかし引き合いに出したラブプラス。「彼女」たちはどんなに「一緒に」いられても、決して抱きしめたりちゅっちゅしたり出来ないんだぞ。
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