【自殺問題】「たすけて」が言えますか?
↓つづき
40年生きてきて、本当の「めぐんでください」さんに出会ったのはただの一度きりだ。大船駅の東口階段(ルミネの脇の広い方)で、おじさんが空き缶を置いて座っていた。
最もあの階段は正面が交番であって、「軽犯罪法1条22号」に違反する行為がどの程度続いたか、オレは知らない。
じろじろ見る物ではないが、缶の中の幾らかの小銭と、うなだれた白髪の首筋を、バブルが弾けた夏の日差しに記憶している。
何でこんなことを書いたか。うなだれた=顔を見られたくない=その行為が恥ずかしい。この推測を納得できると首肯して下さる方は多いだろう。ここに一つの価値観がある。自ら得た物でない糧で生きることは許されざること。働かざる者食うべからず。
昨日の例は一気に何もかも無くしてしまう、というパターンである。そして多くの場合、その段階なら生活保護の申請が出来る。出来るが、働かざる者……の一線もあろう、その方法に考えが及ばないのである。可能だが論外、なのだ。
生き物の本来の責務は「生きる・生き延びる・生き続けること」そのもののはずである。しかし日本においては「社会の一員として責務を果たすこと」が主題と教えられる。
あまり堂々と書くことではないかも知れないが、世界や歴史に目を向けると、自分が生き延びる危機に直面した場合、「死ぬしかない」は実は少数派である。そういう場合は盗み、奪い、他人を殺して自分が生き延びるのである。カエサル(すなわちジュリアス・シーザー)の「ガリア戦記」など、
「その時町に逐い込まれて同じような欠乏に駆られた人々は、年をとって戦闘に役立たなくなった仲間の体で命をつなぎ、敵に降伏しなかった」(VII-78/近山金次訳・岩波文庫)
民度とか道徳とか言ってしまえばそれまでだが、ひっくり返せば、日本人はそれが常態と化すほどの状況に追い込まれたことが過去に少なく、生き延びる選択肢として顕在化してこなかった、それだけ自然に恵まれ温和に過ごしてきた、と書ける。
もちろんドロボウという家業は昔からあったが、「鬼平犯科帳」に見られるように、ドロボウにも「儀」があるのだ。ぶちころしてねこそぎとってしまえば(あえてひらがな)、何の後腐れもないのに、そういうのを「急ぎ働き」と称して最大の禁忌とした。……だから異国の留学生がホスト一家皆殺しにして全部持ち出す、それを平気でやってのけるというのが理解できないのである。
大分脱線した。
少し前まで「鬱病」「精神病院」といった言葉には、似たようなベクトルの響きがあった。これが「メンタルヘルス」「心療内科」といった言葉で「心にアンバランスを感じたら相談に来て下さい」というニュアンスに変わり、こうやってブログに平然と書いている救われた人間が一人いる。
であれば、生きること、命のピンチだろう。一時的に相談する、アシストを受けることは禁忌ではなくむしろ必要なことだと書けるし、「もらう」のに抵抗があるなら、一時借用とする運用もあるだろう。ベーシックインカムなどの議論もあるが、社会の一員として義務を果たすことが人間としての尊厳に直結することを忘れてはならない。そうした境遇を味わった人だからこそ、理解できる、可能な仕事もあるだろう。お金や食べ物をばらまく行為は慈悲に見えて実は無慈悲なのだ。
一番大切なのは、「生きて行く力」を身に付けて復帰すること。
数千万、という単位で小遣いもらうソーリデージンには判らないこと、
そして、小遣いでは身につかない力。
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