愛と創造の天使への返礼
↓のパワスポ(略すな)にチト絡む。
キリスト教では「天使」に9つの階級があると考える。いやそれは恐らく人間が理解しやすいように低次元の了見で便宜的に分けただけで、天使に言わすと全く異なるのであろうが。
曰く最上位に位置する存在をセラフィム(Seraphim)と呼ぶ。日本語では熾天使(してんし)と書かれ、字面から炎・萌える燃えるイメージがあるが、その姿は人間より神に近く、「意志を持った光の塊」に感ぜられるという。なるほど、である。
主題はその先である。天使は皆何らかの守護者であるが、熾天使の場合「愛と創造」を司る。もってして「神の傍らに座することを唯一許される」(ミカエルなどの大天使は「御前」)存在であるという。このことは「愛」と「創造」は神に最も近い…至高の存在であることを示唆する。
「愛」が至高か否かは論を俟たないであろう。愛がなければ次世代の命は育まれない。命のリレーは地球生命の根本であり、その源が愛である。
では「創造」がなぜ愛に比肩する存在なのであろうか。それは生命が、生命以外に「何か」を生み出す行為は、創造以外で生じ得ないからに他ならない。そして「創造」は現状、人間以外その能力を持たない(サルや鳥が道具を使うのは「工夫」)。このことは「創造」こそが人間を他の地球生命と異なる人間たらしめる価値、レゾンデートルを意味しているのではあるまいか。だからこそ、神の傍らに置くべき、セラフィムに守護される価値があるのだ。転じて
創造を伴わない人間の活動は人間である意味が無い。
「もらうだけ」は人間じゃないのだ。人間だと思うならそれをやってはいかんのだ(聞いてるか布施しか言わない新興宗教)。その行動は単なる搾取に他ならず、人間という種・存在に対して、人間の存在を許した国土や神に対する冒涜、とこうなる。
「創造、って何だ?」
何かの職に就くってのは創造の一つだと考える。利を提供するのは創造に他ならない。
但しその利は別の利に繋がる内容でなくてはならない。享楽も利ではあるが、そこで消費されるのみであって次の利とならない。天使に対する「魔」が貪欲と怠惰の権化なのは、それらが創造から次の創造へと繋がる循環を断ち切るからに他ならない。魔のシンボルに死と破壊が伴うのも同様の理由である。命の循環を断ち切る…生命の根本を否定しているからである。セラフィムの守護対象はすべからく魔の攻撃対象なのだ。
最後に疑問を一つ呈して終わりとしたい。
愛が生命の源であるなら、創造は何の源であろうか。
« パワースポット | トップページ | バイオセイフティレベル3 »
コメント