半分、備忘~宝永地震の記録~
会社サボりついでに資料集め。「宝永地震」を記録した江戸時代の日記。
「基熈公記」「谷陵記」「鸚鵡籠中記」その他もろもろあるわけだが。
宝永四年十月四日壬午、天快晴風静か、未上刻大地震動、庭中水船水こぼる、十分の中五分計りなり、諸人騒動、道歩く者七八町ばかり歩く程の間なり、・・・凡そ月中昼夜五三度、小震やまず、十二月始めに至り漸く止む、然りといえども時々小震有り、九月末已後、天気多く晴れ、風吹かず、然りといえども暖気甚だ時世に応ぜず、調子快からず、不審のところ、この変有り、地震四国もっての外と云々、
(基熈公記)
★時系列が前後するが、九月(旧暦)以降ずーっと晴ればっかりで暑さが続き、おかしいなと思っていたらこのザマだ、というわけ。震動時間は「道歩く者七八町ばかり歩く程の間」…750~800m=分速70mで歩いたとして10分。東北地方太平洋沖地震の地震計が3分半から4分記録しており、震源域の長さの違い(東北地方太平洋沖地震500キロ。宝永地震700キロ)から、揺れた時間はより長かったと推定でき、不自然な値では無い。
宝永四年十月四日、未の上刻大地震起り、山穿ちて水を漲し、川埋まりて丘となる。国中の官舎民屋、悉く転倒す。迯んと眩て厭に打たれ、或いは頓絶の者多し、又は幽岑寒谷の民は、巌石の為に死傷するもの若干なり、かかる後は必ず高潮入りなるよし、言い伝ふなどつぶやく所に、同下刻津浪打ちて、海辺の在家一所として残る方なし、未の下刻より寅の刻まで、昼夜十一度打ち来るなり、中にも第三番の津浪高く、山の山腹にある家も、多く漂流す、
(谷陵記・土佐藩の記録)
★土砂崩れによる川の埋没、逃げようとして倒壊家屋に埋もれた者、「津波が来るぞ」と噂してたら30分ほどして襲来して海辺の家屋はことごとく持って行かれた。状況が目に浮かぶようなのは、他でも無い我々も同じ状況を目撃したからである。
●おまけ
東北より鳴り轟きて地震す。未の一点ナリ。
暫々強くして鎮まらざる故、座中申し合わせ皆庭へ飛び下りる。
大方ハダシたり。
地震倍強く書院の鳴動のこと移しく、大木ざわめき渡りて大風の吹くがごとく大地動き震いて歩行することを得ず。
石塔の折れ倒るる音いうばかりなり。
やや須叟して漸く鎮まり座敷へ上るに、三之丸に火事出来るというにつき予独酌三盃して急ぎ帰宅し、両親ならびに家内の安否を見てた直ちに政右と御多門へ出る。両御城代衆、そのほか阿部縫殿ならびに御側同心頭、御国御用人、御目付ら、そのほか諸役人罷り出る。御城内御破損甚だ多し。
(鸚鵡籠中記)
…名古屋城三の丸が火事出したというので、酒三杯ほど引っかけて急いで帰った。ってあーた、急いでねーし。
« 名古屋人として来るべき東海地震に備えて【1】 | トップページ | 変態さんの季節です »
コメント