「9月26日」に書かなくちゃいけないこと
戦後の台風を人的被害の大きかった順に書き並べるとこうなる
1000人以上の犠牲を生じた台風が3つある。上から順に伊勢湾台風、洞爺丸台風、狩野川台風である。
そして、それぞれ、日本への上陸日が9月26日である。もってして、9月26日を「台風の特異日」という人もある。
しかし、貴い犠牲と、彼らの挙動を見た時、どれもが、油断と、備えおよび想定の不足が指摘できる。
温暖化は未曾有の「凶悪台風」を生み出すと言われる。戒めとして、これらを復習しておきたい。なお、気圧表記は現行単位のhPaを使う。
.
洞爺丸台風(1954年)
伊勢湾と狩野川は共に「猛烈」な台風だったが、洞爺丸は上陸前の勢力が最大でも965hPaで、特段強力というわけではない。
しかし日本海へ抜けてから様相を一変させる。一般に台風は北へ行くほど衰えるのだが、逆に発達を始めると共に、偏西風に乗って時速100キロという猛スピードで進み始めたのだ。
台風は熱帯低気圧であるが、これは「熱い海面」と「冷たい上空」の対流が渦を巻く、言わば「垂直」の低気圧である。一方温帯低気圧は、南から北へ上がろうとする熱い空気と、北から南へ下ろうとする冷たい空気とが渦を巻く「水平・平面」の低気圧である。この点で北へ向かった台風は「熱い空気の塊」そのものであって、北からの冷たい空気が一散に流れ込む。この結果、温帯低気圧へ変貌して行く。このように発達のメカニズムが違うこともあり、台風として衰えても、温帯低気圧に変わってから再発達するパターンは珍しくない。洞爺丸は温帯低気圧に変貌しつつ、温帯低気圧として発達しつつ、猛スピードで北海道へ向かったのである。
この日、青函連絡船洞爺丸は、函館での乗船等に手間取り、台風の状況を横目で見つつ、出港のタイミングを見計らっていた。そして17時過ぎに風が弱まり青空も覗いたことから、台風は過ぎたと判断18時40分、船を出したのである。しかし、これは変身中の台風に伴った前線が通過したに過ぎなかった。
函館港の防波堤を過ぎてから、958hPaまで発達した台風自身の風に加え、時速100キロという台風の動きによって加速された40メートルの暴風に巻き込まれ、操船不能に陥り、錨も切られ、エンジンが浸水し、深夜の函館港で沈没したのである。
.
狩野川台風(1958年)
この当時、洋上での台風観測は、米軍の飛行機が目の中に突っ込んで気圧計で直接計測という方法だったが、「877hPa・最大風速100メートル」という数値を記録した。これは1973年まで世界最強の低気圧の記録だった。日本に上陸した時は960hPaであった。ずいぶん衰えて上陸した。数値だけ見るとそうである。風の被害は無い。
しかし。最強の勢力で持っていった熱い空気と、そこへ流れ込んだ寒気は伊豆半島を中心に記録的な豪雨をもたらした。湯ヶ島では1時間雨量が120ミリにもなり、これら雨水は一散に狩野川へ流れ込んだのである。当然、土石流や鉄砲水を生じるが、のみならず、それが途中の橋に引っかかって瓦礫ダムを形成、それが決壊して巨大な鉄砲水として下流を襲う・・・を繰り返したのである。この結果、静岡だけで1000余の人命が失われた。
一方、この被害に隠れがちだが、実は東京都が災害救助法の申請を行ったのもこの台風である。水処理を考えない造成を繰り返した結果豪雨に排水が追いつかず沿岸地域を中心に大規模に浸水したのだ。今の都市型ゲリラ豪雨災害の嚆矢をここに見ることが出来る。
.
伊勢湾台風(1959)
言わずと知れた日本気象災害史上最大の被害を出した台風。南洋では895hPa・最大風速75メートル・暴風域300キロという「超大型で猛烈」という文字通り怪物とでも評すべき代物であった。
それがたった二日で潮岬まで到達したのである。余りに強くて大きすぎるために「衰える暇が無かった」というのが正しい状況なのかも知れない。
紀伊半島に上陸した台風は時速70キロで列島を横断、名古屋を平均風速30メートルの猛烈な暴風雨が襲ったが、その時間は3時間ほどであったようだ。なおこの日夕刻、NHKラジオは「逃げろ、逃げろ」と放送していた。
この台風の強さ、ルート、通過時間、その全てが伊勢湾岸にとって最悪の条件を備えていた。すなわち、深夜の満潮時刻に超巨大台風が襲ったのである。潮位は名古屋市で平均潮位比プラス3.89メートルを記録した。比して高潮対策は急激な宅地開発、干拓進展に追いつかなかったことに加え、いわゆる想定外だったと言われている。
「戦後の混乱期を脱して災害対策が追い付いてきたという安心感をもたらすことになった。そのことが、仮に災害が発生してももはや犠牲者が千名を超えることはないという過信を生み、避難対策の不備につながった面も否定できない。 」(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月 1959 伊勢湾台風 )
こうして、高潮に対する知識も備えも無いところへ、巨大な波浪に流された貯木場の大量の丸太が突入し、人家を破壊し、深夜の暴風と洪水のただ中に人々を放り出したのである。
« 埋もれ行くデジタルの外堀 | トップページ | 認めたくないよ若さ故の過ちじゃ無いんだから »
コメント