物語の終わらせ方
リドルストーリーとか、
バッドエンドは個人的には好きではない。
(君たちのことではない。クリックで公式)
読後に「いい夢を見た朝のように」素敵な気持ちになってほしいからだ。逆に言うとそれだけのために話書いてると言っても過言ではない。
フェードアウトも好きではない。自らタクトをビタッと止める。自然な楽器の余韻は許可する。それが理想だ。
でも、死ぬのはある。
うん、ただ、それは命と引き換えに重い何かを主張しているはずである。死と遭遇することは生き方を変える。逆に言うと死を知らないと生きる重さに気づかない。
だから死を書くときは綺麗に書かない。むしろ投げ出したくなる程グロテスクで丁度良いかも知れぬ。損壊であり分解であり腐敗である。
失恋もある。ただ、失恋は始まりでもある。だからそれはバッドエンドとは呼びたくない。
物語にはそれぞれ自律して動く魂が宿っていると思っている。言霊(ことだま)という奴である。平井和正さんの受け売りではなく、実感としてそう思っている。従って予定調和という言葉を否定する。
ただキャラクタがキャラクタの性格ゆえに特定パターンの終わり方が出て来ることは否定しない。それが予定調和だというなら前言は撤回しよう。でも多分、言霊のゆえに全部が全部そうにはならない。
妙なこと書いてるが、要するに「ことば」が軽んじられてる気がするなぁと思っていてだらだら浮かんだことを書いている次第である。昨今の「歌詞」という奴の語彙が貧困とは常々ブツクサ書いているが、物語もまた然りである。「心に残る」とよく言うが、単に(良いにつけ悪いにつけ)印象が強いのと心の糧になるのは別の話である。後者は自らを変え人に働きかけ要するに何かを動かす。「あれいいな」「なりたいな」これは心の糧である。
ズルいので最新の科学的・技術的知見には常に接することができて取り込んで反映できる。これがいわゆるパターン化やテンプレ化の防止のみならず、語彙自体の増加にも寄与していると考えている。知見をわかりやすく説明するには応じた言葉やたとえを必要とするからである。
また思うに、自分ンとこの話の娘たちは良く「考えている」と思う。この考えている場合は往々にして書いてる側も一緒に考えてる場合が多い。「……」という表現あるが、これを間やタイミング、思わず無言、擬音化困難(下品)な絶叫、以外に使ったところはないはずである。「絵」と「会話」を主とするマンガはさておき、文字を武器として経過を描く場合にそれを使うのは逃げであろう(あーあ言っちゃった)。
知見に基づき考える。それは多く主題の本質を露わにし、提示された問題の解決を与える。
そこに「完結」が見えて来るのではないか。
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