謎の天正地震
「伊勢・尾張・美濃・近江・飛騨・越中の諸国、地大いに震い(ない)家屋崩れ所々火災を発せり(中略)伊勢湾の沿岸に津波ありたり」(本邦大地震概表)
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天正13年11月29日(西暦1586年1月18日)、東海・北陸~近畿地方を大きな地震が襲った。天正地震という。「理科年表」にはこうある。
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「震央を白川断層上と考えたが、伊勢湾とする説、二つの地震が続発したとする説があり、不明な点が多い。伊勢湾に津波があったかも知れない」
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1586年と言えば戦国時代まっただ中である。なのに不明な点が多い。その理由の一つが、信長と一緒にいたルイス=フロイスの残したこれである。
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「若狭の国には、海に沿ってやはり長浜という大きい町があった。(略)海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。
潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。」
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伊勢湾に津波があったらしいことは木曽三川地域の古文献がワラワラあるのでおおよそ明らかである。問題は若狭湾側である。伊勢湾(太平洋側)と若狭湾(日本海側)に同時に津波が起きるような地震があり得るのか?
「日本の活断層」付図より青丸を付したのは天正地震震源候補である。山中のそれは飛騨で起こった山津波の被害規模に基づき、伊勢湾木曽川河口のそれは伊勢湾津波被害の状況と震害分布に基づく。緑丸は濃尾地震の震源を参考に記したものである。
これらのことより天正地震については大きく以下の見解に別れる。
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①フロイスの記述には間違いがある(若狭湾には津波は無かった)
②別々の地震が短期間に起こった(若狭湾の津波は別の地震)
③若狭湾にも津波があったが小さかった
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どれが正しいのか。それとも正解はないのか。
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ここで濃尾平野の成り立ちを書いておく。濃尾平野を作ったのは木曽三川が山から持ってきた土砂である。一方で濃尾平野にはフィリピン海プレートによる伊豆半島の陥入が深く関わる。
伊豆半島が突っ込む。
割り込まれた本州側が持ち上がる。
西側の土地が低くなる。
木曽三川が鈴鹿山脈沿いに押しやられる。
土砂堆積地が西へ西へずれて行く。
東から西へ平野が広がって行く。
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である。一方で鈴鹿山脈は「六甲運動」と呼ばれるこちらは日本海側から押されたことにより持ち上がりと同期しており、この伊豆と六甲二つの持ち上がりによる衝突が鈴鹿山脈を形成したと言われる。なおこの結果、琵琶湖が伊賀の山中から今の位置まで動いていった。
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で、上の断層図である。琵琶湖東岸から鈴鹿山脈北部に向かい、太平洋-日本海を横断する形で断層が続いている。こいつらはこれら大地の運動に伴い発生したものである。以下私見だが、ひょっとして天正地震、こうした動きの延長線で、日本海側と太平洋側をぶち抜く形で動いた可能性を秘めてはいまいか。
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一笑に付されることは承知している。しかし多賀城下を津波が走ったことも、鎌倉大仏に津波が達したことも、話半分と言われていたことが、東北地方太平洋沖地震でようやく大げさ表現ではなかったと確認された。
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なれば、複数文献が存在するこの若狭湾案件、地質学的な証拠を求めても良いのではないか。
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参「明応地震・天正地震・宝永地震・安政地震の震害と震度分布」愛知県防災会議地震部会・昭和54年。
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