米原と敦賀の間の線路には日本の近代史が詰め込まれている
木之本(駅名は木ノ本)
さくら。
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は、さておき。
本題に入る。敦賀は古来海運の要であり、明治に入ると早速鉄道建設の動きが上がった。明治15年(1882年)には敦賀港に線路が敷かれた。この目的は太平洋側と敦賀を最短で結ぼうという物であった。他に長浜-関ヶ原の開通があり、最後に難所柳ヶ瀬越えの開通を持って表題の米原-敦賀間の全通を見る。鉄路は後に大垣へ伸び、揖斐川の水運を持って太平洋-日本海側を結ぶ鉄路が開通する。
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ここでチョットそれる。当時明治政府は「東京-大阪間」の鉄道建設ルートに迷っていたが、東海道ルートに決め、これに基づいて武豊から熱田まで資材運搬を目的に線路が敷かれた。これが現在の武豊線であり、後に上記開通区間とくっついて敦賀-武豊間が結ばれる。
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一方、長浜までの開通した線路は、既に線路が延びていた京都側、浜大津と汽船連絡で結ばれ、とりあえず神戸~大津=長浜~敦賀が結ばれ、明治22年、新橋~長浜間が開通、汽船連絡ながら、東海道線は全通する。これをもって東京・武豊~長浜~神戸・敦賀という交通ルートが出来上がった。
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戻る。以て同年、時の明治政府は敦賀を国際貿易港に指定した。まず理由を考えてみたい。一般に我々日本人が目にする世界地図はこういう格好をしている。
太平洋を挟んでアメリカ、日本海を挟んでユーラシアである。
欧州を中心に据えるとこうなる。
「太平洋」は要らんのである。そしてこの場合、太平洋はユーラシアの裏側に広がった水半球であり、日本は最もオリエント「極東」に位置する。
丸くして確認する。欧亜連絡を考えた場合、航空機はライト兄弟の実験前、北極航路は開発前であり、最速の手段はシベリア鉄道+日本海の船とこうなるのだ。斯くしてこのルートを使ったこんなツアーがフランスで計画される。
(出展「オリエント急行」教育社 1985年)
提案したのはオリエント急行の運営会社であった「ワゴンリ」社である。ただこのプロジェクトは日露戦争の勃発によって未成に終わる。
日露戦争後、ようやくこのルートは欧亜連絡として本領を発揮する。東京から敦賀へ直通する一等寝台車付きの特別急行列車が設定される。「一等車」も「特別急行」も東京-敦賀・下関間にしか設定されなかった。どんだけ重要な存在だったかが分かる。
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その後輸送量が増えて行くが、ここで問題になったのはそれこそ木ノ本-敦賀間に横たわる柳ヶ瀬越えである。機関車1台で越えようと思ったら勾配は10‰(10パーミル=1000メートルあたりの高低差10メートル=1パーセント)以下に抑えたい。ただそうすると新たに設定する新疋田駅と敦賀の間で一気に87メートル上らなくてはならない。
こうなったのである。鳩原(はつはら)ループ線という。ただ、開通は何と昭和32年であった。
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同時に米原の2つ隣、田村から交流電化され、SLや非力なディーゼル運転から解消された。
その後湖西線が開通、大阪圏-北陸の主力ルートがそちらに移ったのは関西および北陸在住の方はご存じの通りである。
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再度動き出すのは平成に入ってから。大阪エリアを走る新快速等の都市型電車群は、電化方式の違いの故に米原を東端のターミナルとしていたが、これを長浜へ伸ばすことになったのだ。すなわち、田村-長浜間の電化方式を交流から直流へ切り替えたのである。こうして「新快速」が長浜へ入ることになる。汽船時代以来何と100年を経ての「ターミナル駅長浜」の復活であった。
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更に21世紀に入り、敦賀までこの直流転換を図る動きが出る。湖西線含めまるっと直流に転換し、同時に小浜線も直流電化されたのだ。結果「新快速・敦賀」が登場する。それは敦賀が「アーバンネットワーク」に取り込まれると共に、敦賀の役割が完全に切り替わった瞬間であった。
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日本海と太平洋を結び、更に世界へ飛び出す。
東京と神戸を結ぶ結節点。
東海道と北陸を結ぶ結節点しかし隘路であり。
そこを広げた結果アーバンネットワークの一部になった。
米原-敦賀。54キロ。明治30年1時間45分/平成25年45分。
どっちも普通列車。
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