大正→元禄→明応
ほう。←シャレでは無い
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記事の中身は
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1304080012/
http://www.sengoku-shizuoka.com/topics/izu/009/
この辺読んで頂くとして、要は早雲の小田原攻めは津波被害に乗じてという説の紹介というわけだ。
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問題はここに出てくる津波をもたらした地震の正体である。「理科年表」には次のように並んでいる。
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1466(文正元)京都
1494(明応3)大和
1498(明応7)日向灘
1498(明応7)南海トラフ
1502(文亀元)越後
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記事に出てくる津波痕跡物の確認地は伊東市宇佐見である。
南海トラフで伊豆半島東側に大津波は無いだろ、という。
実はこの理科年表に記載されていない地震が存在する。1495年に起こった物で、「鎌倉大日記」等に著されている。しかし何故消えたのか?
http://www.onken.odawara.kanagawa.jp/files/PDF/tayori/63/onkendayori63-02.pdf
によれば。
(大日記の記述)
「明応四乙卯八月十五日、大地震、洪水、鎌倉由比浜海水到千度檀、水勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余」。
地震の歴史に興味ある方なら「ああ」と思われるであろう、鎌倉大仏殿が津波で破壊されたとされる原文である。
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が、何故これがスルーされるのか、万里集九という僧侶がこう書いているからである。
「遂見長谷観音之古道場、相去数百歩、而両山之間、逢銅大仏仏長七八丈、腹中空洞、応容数百人背後有
穴、脱鞋入腹、僉云、此中往々博奕者白昼呼五白之処也。無堂宇而露坐突兀」。
(文明十八年十月二十四日(1486年 11 月 20 日))
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ご承知の通り鎌倉大仏の中は空洞だが、お堂も無いところに座っていて、その中で昼間からバクチを打っている、とこうあるのである。なので、鎌倉大日記の1495年は1498年の誤記ではないか。それ以前に既に大仏殿も無かったわけだしウソやろと。
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でもホンマにそう簡単にウソ書くかいな。坊さんの日記後9年もあれば何か建てようとしててもおかしくないだろ・・・研究者たちの執念の結晶が
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「1495年は関東地震と同タイプだった」
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である。つまり、大正(1923)元禄(1703)の1つ前の関東大地震がこれだというのである。これは以下の事実や仮説を裏付ける
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・震源は相模湾であるから、鎌倉にも宇佐見にも津波被害は当然出る。むしろ南海トラフで宇佐美に大津波が来たという苦しい見解が不要となる
・海岸段丘の出来方から、おおよそ200年間隔で発生すると推定されている。元禄のほぼ200年前である
(1495年を関東地震とするなら、1241年にも鎌倉に津波が襲来しており、連続性が更に強まる)
・「熊野年代記」には明応4年に鎌倉の地震、明応7年南海トラフ双方の地震記載あり
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実は鎌倉大日記を「嘘くせぇ」と言ったのは何のことは無い元東大地震研の都司氏なのだが、氏もこの意見が出るや「他に傍証があれば検討に値する」と言ってるとか。
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…結論が無いような話になったが、要は「現代の常識」をとりあえず置いておいて、過去の記録はきちんと精査しておくべきであろうというのが一つと、南海トラフと関東地震、三陸沖は別々の機序で発生しており、タイミング次第では短い期間で次々起きる可能性もある、ということだ。関東地震は「順調に」行けば次は2100年代であり、この3.11に近似して発生する可能性はまず無い。他方で南海トラフは着実に発生が近づきつつある。
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心得を
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