コミュニケーションのディメンション【結】
(最終回)
で、戻る。「KS」を非難する。罪悪感を覚える裏には「仲間の証拠」が欲しい心理がある。それを弱みにつけ込む言葉・観念が「KS」である。「仲間のくせに返さない」である。こいつを上記コミュニケーション次元論(今勝手に作った)に当てはめると、3次元2次元の世界を1次元に要求しているに等しく、そりゃどえりゃぁ無茶である。1次元の良さを全否定しているからだ。ひっくり返すと、実は1次元から上に進まないしょっぱいつながりに過ぎないからそれで済まそう、ということかも知れぬ。或いは1次元で終わらせるにはグループとしての熟成が不足か、存在意義が不足、と言えるか。どっちにしてもうまく行ってない。だってそれで腹立ててるって相手の状況考えようとしてない証左じゃん。束縛であり拘束、「仲間」のすることか?それ。
「見るだけは見た」の証しとして既読にしたのに「レスしない」。そこで「ごめん」と返したのに非難された。それはそこからの抜け時を示唆していないか。意味の無い束縛やボス風の発生は組織の崩壊遠からず。
LINEという手段ここまで広がった以上どうにもなるまい(ウチは個人情報保護の不安からやらないが)。ただそういう理由と機能から各種制約を念頭に、相手の気持ちを尊重することがより強く要求される。あと「仲間でいたい」これだけのためにLINEぶら下がってるのは間違いだと思う。そのために唯々諾々では決して幸せになれない。「仲間」にそんな制約はないはずだからだ。負担を感じた時点であなたは「仲間」ではないのである。振り切るのは勇気を求めるが、後ろ指刺されるのは辛いだろうが、前述の如くコミュニケーションは経験してナンボ。「仲間」を1回で決めねば、というもんでもあるまい。一つの糧として次の経験に進めば良い。
最後に、既読スルーで苛立っているあなたは書いたとおり大いなるカンチガイの最中にある。立場ひっくり返して考えて欲しい。読んだかどうか、その反応を返すかどうかでいちいち腹立てるような奴をあなたは好きになるか?
振り返ればゲーム脳だの中毒だのに始まり、携帯電話のオモチャ化、ネットの一般化、裏サイト、プロフと援助交際、そしてSNS。時代ごとに何のかんの出現しては問題が発生し、応じて乗り越えて落ち着いてきた。「コミュニケーションの経験値」そのものである。新しいものには利便と共に問題がつきもの。子供が使えるなら大人も応じて理解と即応が絶対に必要。私たちは問題を抱えながら、あるべき姿を探って行く義務を負う。
それは、子供を未来へ送り出す大人の責任でもある。
(終)
« コミュニケーションのディメンション【転】 | トップページ | よにんでSUPER TEUCHI MIX 2013アンコール-Ukinori Christmas-(の前半分) »
« コミュニケーションのディメンション【転】 | トップページ | よにんでSUPER TEUCHI MIX 2013アンコール-Ukinori Christmas-(の前半分) »
コメント