時代遅れエレジー
稟議書が出したことすら忘れた頃に戻ってきて、「ネット対応を加速のこと」とか付箋されてると、反省感より失笑が先に出る。あまつさえは当人がミーティングで「業務効率化のこと」とか言ってのけたりする。あんた自身がネット対応して効率化すべきとちゃうんけ。
よらずこっち戻ってから、会議資料を「紙で」要求されることが増えた。おやおやおかしい。以前いた時は、それでも資料をプロジェクタに映して、意見だけはホワイトボードにって、その時代なりのペーパーレス化進めてなかったか。
曰く「紙じゃ無いと書けない」から紙でよこせなのだという。アホか。だったらノーパソなりタッチパのキカイなりに資料収めて書き加えればええやんけ。ちなみにその「紙資料」はワードで作って印刷してハンコ押してそれをスキャンしてpdfにしてメール添付で貰って、それを印刷して配布している。バカバカしいと思うだろう。この理由は「ハンコを押した」証拠が欲しいからなんだと。認許したと稟議依頼者にメールで返せば済むんとちゃうんけ。
「ハンコ」にこだわり、パソコンがおぼつかないというのは、いわゆる団塊の世代の上司であれば微笑ましいで済まされたかも知れないが、曲がりなりにも電子回路いじる工場なのだ。その下世代が同じ有様では今の時代は無様の一言である。言いたい放題言って議事録に反映されてない(書記の板書きが追いつかなかった)とか全員にメールでチクったりしている。よらずテメエのメモに残っているのを根拠に言った言わないの不毛な論争になること多い。
以前「議事録ドリブン」という会議のやり方紹介したが、あれは個々人がパソを手にして同時共有する環境でより実効性を増したと言って良い。本来会議は多数の意見を集約してよりよい方向を見いだし、結論という「価値」を上乗せする作業であるはずだ。それは各人の意見を確実にテキストにして全員が共有する集合知化に他ならない。それを要領よくまとめたものが「議事録」である。テメエだけ紙に書けることに何の意味がある。
(ソフト・ハード各社よ、この手のデバイスとスマホ・タブを無線でペアリングし、手のひらのテキストをフリックで放り込めるもん作ってくれや。司会進行はそれを資料の意見位置に貼るだけ)
他方ウチの工場ノーパソやUSBを社外へ持ち出すの非常にハードルが高い。ユーザ登録をして指紋認証をして、持ち出すたびに電子申請を通して上長認証をもらう。これは幾度となく酔っ払って紛失とかバカなことをしたせいだが、おかげで出張にヒョイヒョイ持ち出すことも出来なくなった。てゆーか使えるPCが限られてしまい、XPのもっさりマシンしかないのだ。電池も持たず使い物にならぬ。結果、相手側はSSDのペラペラな新パソズラリ並べて、QC工程表をiPadに呼び出したりしているのに、こっちは紙資料ガサゴソして「ではチェックシートに基づき」とかやってるんだ。何を偉そうに時代遅れが。この屈辱感わかるか。
さすがに鬱陶しいので、最近は出張メンツの中に小うるさいこと言う人いない時は、エイサー広げてペタペタ書いてる。もちろんお話や短歌書くのに使ってるあのタブである。私用PCの業務利用は本来禁止なのだが、やりとり書き出しておき、コピペで並べ替えて体裁整えりゃ報告書一丁上がりなのだ。紙に書いてそれを会社持って帰ってPCで書き起こしてとか時間の無駄も甚だしい。もちろん漏洩の恐れはゼロでは無いので技術的核心部分はAとかBとか隠語にしておき、最後提出段階で本来用語に直す。「公私」はある程度混在可能な余地を残しておかないとクロスオーバーな事態に対応不可能とするし、逆に落とし穴になったりする。大体仕事もプライベートも含めて暮らしという「流れ」だ。流れを断ち切ってどうするのだ。
形式にこだわって本質を見失うとどんどん置いて行かれる。
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