コモディティ化する世界の中で
Commodity:原義は日用品。転じてありふれた物品に成り果てること
以前短歌イベントのレポートの中で「戦前からの歌壇や文学の流れを知る方の意見や見解は貴重だ。我々はそういう見方考え方を引き継ぐ義務がある」と書いた。比して経済・特に工業の分野で高度成長を知る方の意見は言っちゃ悪いが最早参考にならない。ナントカ団体連合会のトップとか文字通り頭痛い。
特定の機能作ってもそれをIC(集積回路)にまとめてバラ売りするので誰でも同じ機能が作れるようになる。従ってICから後ろは誰がどこで作っても同じ、となる。これが現状コモディティ化の仕組みである。で、対してナントカ団体や経済新聞が誘導したのは海外進出だ。しかし海外で現地の人がICぺたぺた回路に貼り付けて生産する以上、誰がどこで作っても一緒であり、それ以上のものにはならない。人の質(手抜きする・ルールを破る)で製品の質も決まる。日本メーカを名乗る意味はそこにない。
日本ブランドの信仰の原点は「トランジスタガール」にある。小さな部品を手作業で精巧に組み立てて行く。勤勉で意識の高い民族性に根差した類稀な「マニュファクチュア」である。しかしエレクトロニクスの発達はそうした「精巧な人手」の出番をどんどん削っていった。トランジスタガールはワイヤボンダという機械になり、ブラウン管の焦点チューニングは液晶化でそれ自体不要となり、今はクルマにエレクトロニクスの波が迫りつつある。
もちろん機械化しても管理がダメなら質は維持できず、ここに日本の出番の余地がある。新幹線なんか典型で、毎夜ミリ単位であれこれ調整するから時速300キロぶっ飛ばしていられる。ところが企業の頭の方何を思ったか品質管理人材削る。コストダウンで外に出せという。果たして実態はというと、求める質は日本国外では維持できず、現地人件費もかさむばかりでコスト下がらず、結局全て機械化して為替条件下がって日本へ輸入とかバカなことになっている。
目を覚ませ。
「性能」というがまず「機能」が無ければならない。気づいてる方は多いと思うが日本はあまり「新しい機能」を生み出してこなかった。一歩ゆずってスピンアウトや融合なら数多くある。ウォークマンはカセットテープ再生のスピンアウト、新幹線は鉄道技術の集積、ハイブリッド車は言わずもがな。
人の感じる「利便性」が五感とりわけ視聴覚に根差すものである限り、人はそこに訴え掛ける「これまでになかったもの」は全てやりつくしたように見受けられる。立体視も頓挫した3Dテレビ()ではなく単なる高精細化で錯視的に得られることが実証されつつある。これは、音が特性上耳では聞こえないはずの超音波領域まで対応した「ハイレゾ音源」で別次元のリアルさを獲得したのに似ている。目や耳はサンプリングで情報を抽出しており、それを超える十分な情報を与えれば応じた結果が脳に結像する。後はデバイスごとにどこまで情報量を落とせば適正かという話に集約される。それこそコモディティ化である。
この流れは五感に向いた機能は値段勝負に陥り、「高度な手先」は必要でない次元にシフトしたことを意味する。半導体技術の延長線上に視聴覚機器を据えるならこの流れはもはや戻らぬ。大人しく規格屋としてのみ存在し、ロイヤリティに活路を求めよ。
他方駆動系を有する機器はまだまだ人手と生産管理に重きを置く要素がある。これらは日本へ戻せ。高度な手先が必要である以上、視聴覚の赤字補てんのために海外へ出すなど逆効果だ。「家電品」「工業製品」とひとくくりにするからおかしいのである。コンプレッサのカウンターウェイトを一義的に決められるものか。
電機業界決算揃ったが、視聴覚メイン(実はこいつら黒物家電という)のところは惨憺たる流血という有様になった。白物家電も国内のエアコンが海外の赤を補てんとか、国内メインで作っていたので急回復とか。素朴な疑問としてなぜ日本国内で使うもの海外で作る?「ばっかり」ではなく「何をどこで作れば適切か」。コモディティ化の進展とユーザの所在でキチンと切り分ける、その見直しをする必要があるのではないか。
ナントカ団体の言うままではなく、潮流を肌で感じて対処せよ。メイドインジャパン。
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