宝永地震を範として【1】
東北地方太平洋沖地震の前に「過去最大」と言われていた地震は「宝永地震」(1707年。現行の暦で10月28日)であった。南海トラフの巨大地震であり、当時の文献に書かれた被害状況からマグニチュード8.7とされている。
日本の地震観測強化・予知活動の本格化は「東海地震」の可能性が騒がれ出してからになる。その過程で南海トラフには大きく「東海」「東南海」「南海」の3つの震源があり、2つが連動したり3つが連動したりすることが分かってきた。次はどうなるか、考え始めた時点で発生したのがスマトラ沖の大地震(2004年M9.1)であり、南海トラフでも同クラスが懸念された。そこで起きたのが東北地方太平洋沖地震であった。残念なことに日本の地震学は南海トラフとりわけ東海に集中してリソースを投入しており、この未曾有の災害を予測出来なかった。しかし一方で21世紀最新技術全てを投じてデータを拾ったこの地震は、逆に南海トラフに対する新たな知見と理解をもたらした。
以下東北地方太平洋沖地震を踏まえた宝永地震に対する最新の知見と、そこから類推される「21世紀南海トラフ地震」の様相をシミュレーション的に書いてみたい。
●震度分布
2013年の文献による。
(http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_26/HE26_89_90.pdf)
更に愛知にフォーカス。文献が古いので「6」を「強弱」にわけていない。
●震源と地震の発生
当時の人々は太陽の位置を基準に時間を決めており、対して地震動を受けた地域は図のように東西1000キロに広がる。これは「太陽の高さが同じ」になるのに36分の時差があることを意味する。発生時刻に関して当時の日記は「午」とか「未」とか書いているが、1000キロ離れている割には揃っていると考えるべきであり、逆に絞り込める。すなわち、江戸で「午上刻(13時)」であり、因幡で「未刻(14時)」である。
純粋にこうした条件と記述を取り込んで記録の平均値を取ると「13時47分±1.02時間」になるそうな。東海地震は江戸で強く、南海地震は因幡で強く感じることを考慮するとおおよそ13時半から14時過ぎの間に、次々長々と各震源域が地震動を生じたと推察される。
東北地方太平洋沖地震は東京で5分ほど揺れ、直後の1回目の余震にそのまま繋がっているが、同様に5~10分ほど揺れたと考えると妥当なようだ。当時の人々は本震について「200歩分」など、歩数やタバコをふかす間隔などで地震動の継続時間を表現している。なお、東海・東南海・南海が同時に発生したのか、東北地方太平洋沖地震のように順次ずれ動いていったのか、どれかが収まってすぐまた揺れたのか、揺れた順番がどうだったのか。そこまでは追い込めていない。
だが、東北地方太平洋沖地震でも本震の後からほぼ絶えず余震が頻発し、15時15分茨城沖M7.6でまた大きく揺れたことを考えると、「ひっきりなし30分+1000キロという距離の誤差30分」と考えれば、妥当な値と言える。
「半時ばかり大ゆりありて、暫止る」(『万変記』)
震源地は紀伊半島沖1カ所にまとめて書かれることが多いが、そこは「破壊開始点」あるいは津波の分布から逆算した「震源域の中心」と解釈した方が良いようである。なお「東海・東南海・南海」と思われているが、伊豆半島西岸の津波記録が少なく、御前崎の地殻隆起が安政東海ほどではないことから、「東海」の破壊エリアは、その西の方のみ(陸域に食い込まない)。逆に宮崎熊本で震度6相当を記録しており、長崎の出島で津波が記録されている(東シナ海へ出ている)ことから、南海地震+日向灘沖の一部も含む(全体としてやや西にずれる)、とした方が妥当なようである。既存の「東海はココ、東南海はココ、南海はココ」にこだわらず、実測に合う姿を探した方が良い。
(前出2013年の文献と同じ)
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