宝永地震を範として【3・終】
●津波
「宝永地震」を手本に南海トラフの場合を考えるわけだが、東北地方太平洋沖地震のデータをフィードバックして浮かんだ「南海トラフ巨大地震」の実像は、「起こり方は一律ではない」という結論を導く。「東海」「東南海」「南海」と分けてはいるが、宝永では「東海」の陸域は動いていない。また震源域分布の中心は若干西寄りで、「南海」エリアよりも西側、日向灘沖も少し動いたようである。また、昭和南海・昭和東南海は
「室戸岬の隆起量:「津呂・室津は宝永の時は六七尺(1.8~2.1 m)、安政の時は四尺(1.2 m)」(「大変記」など)、と記されている。昭和南海地震 (1946) の事例を参考にすると、室津に対して室戸岬先端部は約 20%隆起量が大きかったことから、室戸岬は宝永地震で約 2.3 m程度、安政南海地震で約 1.5 m程度隆起したと考えられる。その後経年的に毎年7mm ずつ沈下すると、100 年~150 年後の次の南海地震の直前には約 0.7~1m 程度戻る事になり、宝永地震に対しては約 1.5 m程度、安政南海地震に対しては約 0.5~0.8 mの隆起が残ることになる。宝永地震による海岸段丘は明白に残るが安政南海地震による段丘は不明瞭となる。昭和南海地震程度(室戸岬の隆起量 0.9 m)では隆起はほとんど残らない。」
(日本地球惑星科学連合2007年大会予稿集より)
安政・宝永のそれに比べると「小粒」であり、決して宝永の再来になる、それが最大である、とは言えないことに留意が必要である。なお、海岸段丘の分布から、1700年に一度、東海から南西諸島まで一度に動く深甚なる超巨大地震が発生していると推察されている。
さて津波である。宝永の津波は東は銚子から、西は種子島。更には長崎、済州島(韓国)、上海まで達したことが記録されている。最大の津波は土佐で観測され、地震発生より30分後、20メートルを超える巨大なものが襲来したとみられている。
(これより高いのである)
また特記すべきは2時間後大阪に達し、日本橋で船が流されたなど「地震動で家屋倒壊など混乱状態の所を3~4mの津波に襲われた」とみられることある。なお、大阪の宝永地震の人的犠牲は「確定2700、ウワサのレベルで1万2千」であったが、幕府の公文書に2万1千と書かれたものも見つかっている。35万の水運メインの大都市である。過大な数字ではあるまい。
なお、東北地方太平洋沖地震で見られた「平地の奥まで到達する津波」は、南海トラフの場合対象が濃尾平野となり、伊勢湾の奥になるため顕著化しなかった、と考えられる。ただ、尾張の武士が「熱田海等、甚だ潮甚高く、進退不常、新屋川等迄潮来る」(鸚鵡籠中記)と残しており、津波自体は襲来している。ここは「宝永では来なかった」程度に解釈しておく必要があるだろう。「伊勢湾は『Ω』の内側にあるため、太平洋から来る津波は弱まる」のであるが、実際、宝永の一つ前の南海トラフ「明応地震」(1498年)では津市の港が壊滅し、住民移転までする事態になっており、決して安心出来ることを意味しない。
●おわりに
南海トラフは記録自体は684年から存在し、しかし科学的解析はここ100年、更に詳細に過去文献と照合取れるレベルまで計算可能になったのは2011年以降、それこそ東北地方太平洋沖地震の経験を得て、である。対しこの地震は様々な発生パターンを持っており、M9を容易に超えたタイプも過去にあった可能性が示唆されている、段階である。少なくとも我々は過去の人々が未来に申し送りしようと残してきた石碑を尊重すべきであるし、もってして「次の南海トラフ」の犠牲を最小限に抑えることこそ、3.11の多大な犠牲に対する最大の鎮魂であり義務であろう。
「次」がどうなるか予断を許さぬ。分かっているのは最小限、過去の知見に従うべきであり、そこに最新の予測を上乗せして、可能な限り遠く、高くへ逃げることであろう「まさかここまで」これを禁句としたい。
今から30年後、2045年ごろ、昭和の南海・東南海地震から100年。安政東海地震から190年になる。過去東海地震は200年以上間隔を空けたことはなく、東海地震は単独で発生したことはない。このことは次の南海トラフは少なくとも東海・東南海連動となることを強く示唆する。向こう30年で発生する確率は70%。最大マグニチュード9。これが東北地方太平洋沖地震を見込んで再検討された南海トラフの姿である。
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