21世紀から参りました~大幸八幡社に濃尾地震の記憶を訪ねて~
池上彰氏の自然災害を扱った番組に出て来た「大幸八幡社」に行ってみた。
由緒書きには宝暦二年(1752)創建とある。二千余年の歴史を持つ神道においては極めて新しいと言って良く、この時代にこの地域が新規に開かれたと推察される。ちなみに
こんな位置にあるが、特に迷うことは無かった。神社から道が広がったのか、導かれたのか、さておき。管理は近代工業の手になる門塔でわかるようにキチンとしていて、奥の鳥居は平成24年築、賽銭ドロボーが絶えないので~という張り紙と、応じた対策がしてあった。
お参りして目的はこれである。
「震災紀念碑」
濃尾地震(1891年)の被災状況と復興への道のり、謝辞を記してある。先の南木曾土石流災害「蛇ぬけ」の碑でも書いたが、こういうのは当時の人が当時の認識で書いているので、時代時代で最新の解釈を加えて行かないと「知識」にならないし、「未来への申し送り」として機能しない。
ちなみにこの神社に関して記したブログも幾つかあったが、この碑文について触れたものは無いようなのでここに全文書き起こす。なお、旧字体は現行の書体に変換し、仮名文字はひらがなにする。
嗚呼明治二十四年十月二十八日は如何なる凶日ぞや
轟然万雷の鳴響を発し巨大なる地震尾濃両国の
平野に起り瞬時にして地裂け家倒れ為めに圧死
負傷せし者本村に於いても幾十名の多きに至り実
に言語に絶せし惨状を極めたりき。我が大字堤防用
水路の如き悉く崩潰せしを以て一朝洪水に際せば
家屋を流し田圃を失うや必せり故に到底茲に
永住するぞ目処なきを以て人々挙りて他町村へ
転居せんと欲するに至れり。然るに畏くも
聖上皇后両陛下より莫大の救恤金を下し賜わ
り且つ復旧工事費七千余円国庫金を以て下附せ
られし故に村民工事を請負に日々工夫千余人を
督し窮余にして効成り旧形に復せりの千衆民此
に安堵し業に就く事を得た。これ実に
皇恩の尊きと其他諸国有志者の義捐金を恵興せ
られしとに依れり部民一同感佩に堪えず茲に之
を表す。
明治二十六年十月二十八日建之
六郷村大字大幸 一同
読み仮名
救恤金:きゅうじゅつきん/工夫:こうふ(工事人夫・土木作業技術者)/業:なりわい/義捐金:ぎえんきん/感佩:かんぱい/茲に:ここに
注釈・考察
・まず日付は当時既に太陽暦であり、書面通り10月28日と受け取って良い。晩秋の朝6時38分であり、朝食の準備という世帯が多かったのではないか。
・轟然万雷の鳴響を発し巨大なる地震~平野に起り瞬時にして地裂け家倒れ:揺れ方に関する描写がないが、逆に言うと大音響と共に突如巨大な震動が襲ったことを裏書きし、直下型巨大地震であったことを示唆する。また、家が倒れ、は、木造家屋の倒壊を誘発する周波数成分(キラーパルス)が含まれていたことを意識すべきであろう。
・尾濃:尾張と美濃のこと。追って判明した被害地域を明記したのであろう。
・大字(おおあざ):住所の単位。
・堤防用水路の如き悉く崩潰せしを以て:川っぷち×江戸期以前に作られた堤防であるから、当然液状化で崩壊したであろう。用水路はあちこちに切れ目を入れて田に水を引くという使い方をするが、同様に、川の堤防があちこち崩壊し潰れて「用水路みたいに」なったのではないか
・その後は天皇家、明治政府、国内からの義捐金により復旧できたことと謝辞である。なお、義捐金の価値水準は大体1000倍すれば現行の金額と比肩できる。700万円。
・石碑の日付より旧に復するまで2年を要した
こんな感じか。単に読むと「地震で被害が出た」程度の情報だけに見えるが、メカニズムを知った上で読むと、知られるメカニズムに当てはめて「何が起きたか」が類推出来る。加えると、この地域(名古屋)はその後昭和東南海・南海地震を経験するが、同様の碑文が無いあたり、それらでは類似現象(家屋倒壊と液状化、堤防崩壊)は起きなかったと推定される。だが、濃尾地震では震度6相当と記録されており、将来に来るであろう南海トラフM9クラスでは、類似現象が再び起きる可能性の潜在を示唆する。
21世紀の技術水準で尚、食い止められぬ未曾有の災害を知った今を生きる我々こそ、昔日の人々の貴重な犠牲を、申し送りに込められた気持ちを、掬い上げるべき義務があり、そのタイミングは南海トラフ・台風の凶暴化が叫ばれる今ではないのか。
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