東海道新幹線50年に寄す
まず組織上の万難を排し鉄路結実へと導いた時の国鉄総裁十河。技術の粋を集め「夢の超特急」を現実の物とした島技師長。および彼らの元奮迅した数多の男たち。そして今、この鉄路を日夜保守しているスタッフの各位に謝意と敬意を表する。
さて(軽く咳払い)。
最初に乗ったのは幼稚園坊主の頃だったはずである。オヤジにせがんで小田原まで「こだま」に乗った。ただ、新横浜までは都市区間でのろいのと、当時のダイヤでは「こだま」自体あまり速度を上げなかったので「飛んでるようだな走る」ほどの実感は持たなかった記憶がある。小田原で降りると聞いてもう降りるのかと相当駄々をこねた気がする。父親にしてみれば単なる乗り鉄で大奮発だったのだが、幼稚園児に懐事情は通じるはずもなく。
昭和50年に博多へ延伸し、母親の郷里への行き来に常用するようになった。もちろん夏休み・冬休みといった単位であったが、食堂車でハンバーグを食べ、祖母へ車内から電話をし、6時間は決して退屈では無かった。祖母宅近所の公園から車庫である博多総合車両所(当時の名称)へ出入りする16両編成を眺めた。
時を経て就職し常用するようになり、更には公私でICカードを使い分けるという事態に至った。これは他ならぬ「長距離の旅の友」から「高速移動手段」への変遷と機を一にする。速くてスマートなことは確かだが、グリーン個室も食堂車もない。「夢の超特急」に乗るというわくわく感は無くなったしまったように思える。それは当たり前になったが故の贅沢な悩みであるのだろう。
その代わり信じられないような距離を日帰りで汽車旅が出来るようになった。その車庫へ出入りする線路だったところを自ら乗ってその先へ行き、鹿児島でラーメン食って帰るなんて日が来ることになろうとは。ただ、祖母は既にその時この世に無く。
東海道新幹線は突貫工事で工期短縮のために盛り土区間が多い。地震への脆弱性を言われるが、逆に柔軟性を持っていて適切な保守により路面平滑性をコントロールしやすい。むしろコンクリでガチガチに固めてしまった後年の開通区間の方が今後保守に難渋するかも知れぬ。
従来東海道本線特急のほぼ2倍「時速200キロ」「大阪まで3時間」を掲げ、その非現実的な数値から「夢の超特急」と呼ばれ半世紀。技術の進歩は同じ線路を285キロで走らせることへメドを付けた。2時間20~25分になるという。新幹線は離れた都市を、ふるさとを隣に持ってきてしまう。そしてやがて列島を一つに結ぶ。鉄路の果てに栄光あれ。
あえてビジュアルは付けぬ。最後に短歌を詠じる。
「ひかりごう」憧れた僕は帰路の背を「のぞみ」に託す父親となり
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