ヘンシェル・ヴェーグマン・ツーク(Henschel-Wegmann-Zug)
ヘンシェル・ヴェーグマン・ツーク(Henschel-Wegmann-Zug)。ドイツ国営鉄道が1936~1939年の間、ベルリン=ドレスデン間で運転していた急行列車。流線型の蒸気機関車と、同じく流線型で展望室を備えた客車4両で構成され、最高速度160キロ。
両都市間およそ160キロを100分で結んだという。現在の特急列車(ICE)でも2時間を要しているので、べらぼうにぶっ飛ばしていたことが推測される。なお、「ヘンシェル」は機関車の製造メーカ、「ヴェーグマン」は客車の会社である。取っ外せば、何と、ただの「急行」になる。しかし、もちろん、ただの急行であるわけがない。
この佇まいをまず見て欲しい。鉄道模型で外国型に手を出すにあたり、オリエント急行、TEEラインゴルトと共に揃えておこうと思ったのがこのヘンシェル・ヴェーグマンである。理由はこの模型にしてなお発散されるインパクトのある佇まいと、わずか3年という短命にある。この短命の故は年代から分かる通りナチスが絡むが、逆に当時ドイツの合理性・機械技術に対する高度性がこの列車には垣間見える。
例えばこれは機関車。61型(Baureihe 61)と称する蒸気機関車だが、まず走行に要するロッドなどのメカは一切見えぬ。流線型のカバーの中に全て隠されている。この写真は一つだけ車輪が見えているが、これは模型の場合急カーブを走るためそのカバーを外したに過ぎない。また水と石炭は自車に全て(この写真で言えば運転室右側)に積み込んでいる。前述の通り160キロだけ走れば良いので、別途炭水車を持たない設計とし、列車として軽量化と空力向上にこれ努めたのだ。メカ的には2シリンダ(蒸機は2サイクル内燃同等なので4サイクルエンジン4気筒に等しい)1066kW(1400馬力)、動輪直径は2300ミリ(日本最大・最速のC62が1750ミリ)あり、機関車単体で時速175キロを記録したという。流線型はもちろん空力特性を意図したもので、同様に短距離高速を意図したディーゼル列車フリゲーター・ハンブルガーや
多分この記事見てる皆さん意識しているであろうツェッペリン飛行船を想起させる。なお、この時代「蒸気機関」という原動機は既に時代遅れなのだが、逆に言えば「枯れた技術」と言え、熟練の粋を極めると何が出来るか、という意図もこの列車にはあったようだ。他には密着連結器・ベアリング軸受けなど、現在にまで生き残っている技術が採用され、総じて出力・空力・衝動抑制・摩擦低下と、速度向上のボトルネックへの挑戦が全て行われていることが判る。これはナチスが鉄道を通じて総合的な機械技術向上を図っていたことが透けて見える。
しかし。
トータルコーディネイトされた客車と100キロ超の特急運転が出来た時間は3年と短かった。運転休止は39年8月……第2次大戦勃発が39年9月のポーランド侵攻と置くならまさにそのせい、となる。その後、車両そのものは戦争を生き残ったが、戦後も再開されることなく、客車は改造され、機関車も事故で壊れ、復活の機会は永遠に失われた。
この列車は、特に日本の鉄ヲタには、同様に流線型で短い時間だけ活躍した「モハ52」と比肩される。同車は時を同じく1936年に登場し、京都~大阪~神戸間急行列車として高速運転を開始した。今のJR西日本「新快速」のルーツたる列車と言える。しかし同様に2次大戦に前途を阻まれ、1940年、急行運転の中止と改造・車両拡散が始まる。ただ、こちらは戦後高速電車開発の試験に供されたり、晩年は飯田線に集められ、地元密着の余生を過ごした。
ここは平和の国日本。幾らでも走りなさい。手のひらから9ミリのレールに降りて、シリンダ圧込めの代わりに電圧を与えて。
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