・安政東海地震(1854・12・23)
・昭和東南海地震(1944・12・7)
「東海地震が来る」と言われて久しい。これは安政東海地震で甲府が震度7相当だったのに対し、東南海ではそこまで大きな震動がなかったこと、および、宝永地震(1707)との津波挙動の違いによる。そして、2014年現在、東海地震より160年が経過、これは宝永→安政のスパン(149年)を考慮すると、いつ来てもおかしくない時期と言っても良い。ちなみに昭和東南海・南海は、安政の地震から90年で発生しており、これは「短すぎ・小さすぎ」とつとに言われてきたが、ここは「濃尾地震」(1891)の影響じゃね?という見方もあるようだ。どっちにせよ南海トラフの挙動を単純に解釈するのは早計に過ぎる。
さておき、名古屋で関東大地震以降「震度5」を記録したのは実はこの昭和東南海1回きりである。
一方で戦争のゆえに隠されてきた東南海地震の様相について、研究者達の地道な努力で全容解明が進められてきた。そこで今回は「名古屋で、最も直近の、大きな揺れ」として東南海地震のシミュレーション的再現を試みたい。
●地震発生
昭和44年12月7日午後1時36分。三重県東南沖南海トラフで逆断層型の地震が発生、破壊は東へ向かって進行、トータルでM7.9(モーメントマグニチュード8.1~8.2)の巨大地震になった。御前崎の地震計は17秒の初期微動と3分の主要動を観測している。ちなみに3.11で例えば宮城県大崎では初期微動20秒、主要動5分以上(恐らく最初の余震と繋がっている)。東京では初期微動40秒、主要動5分以上である。
揺れそのものは「東西方向のガタガタ」「5分ほど」「立っていられずつかまっているのがやっと」と個人の日記や追ってのインタビューに残っている。東海三県では位置的に「直下」と言って良く、対し動いたプレート面積は大きいことから、揺れそのものは大きく、ゆっくり目で、長かった、と考えられる。木造家屋はガタガタと揺れたことであろう。
(多分これに近い。これで震度6弱)
愛知県の推定震度分布(飯田汲事/1977)を貼る。なおこれは追って家屋倒壊など破壊の程度を氏が調べ歩いてまとめた労作である。これによると知多半島~三河エリアの震害が大きく、西尾市近辺は「7」相当であったと考えられている。
さてこの地震の震害では知多半島半田市に当時あった「中島飛行機半田製作所」の被害が追って知られることとなる。字の通り戦闘機を作る工場で、明治期の紡績工場を改造してあった。すなわち
・明治期のれんが製の工場であり、耐震性はそもそも低い
・秘密保持のため、窓と出入り口は殆ど塞がれ、1カ所しか無かった
・飛行機を作るスペースを確保するため、柱が相当数取り払われていた
この結果、午後の就業始まって程なくの大揺れに対し、多くの従業員が逃げようとして出入り口に殺到、そこにれんがの工場が崩れ落ちるという事態を招くに至り、96名の学徒動員を含む153名が死亡した。半田市の犠牲者188名であるから、殆どが同工場の従業員ということになる。
●津波
津波は破壊開始点が三重県沖だったこともあり、三重県で第1波が5分後には到達した。立っていられないほどの揺れが5分続いた後、5分以内に逃げろということだ。あなたには出来るか。また津波の波高も震源に向かってV字に口を開けている尾鷲で特に高くなった。同じ飯田氏の波高調査結果を貼る。
伊勢湾内の数字が低いようだが、これは同湾が「Ω」形をしており、鳥羽-伊良湖間で一種の「フィルタ」が掛かったような形になったことと、震源域が伊勢湾内には達していなかったことを示唆する。
地震波から日本で大地震が起こったと察知してニヤニヤしながら撮ったのであろう、米軍機の撮影した尾鷲の状況。市街地に船舶が打ち上げられている姿が見える。なお、米軍はこれを受け名古屋周辺の軍需工場への空襲、「地震の次は何をお見舞いしようか?」旨書かれたビラを撒いたりしている。
さて津波に関しては三重県内で子供達の作文が多く残っていて、揺れと共に校庭へ逃げたこと、揺れが収まるや津波が来るから逃げろと指示され学校前の山へ登ったこと、などが書かれている。津波自体は5~6波押し寄せ、1波目と3波目が大きかったとある。なお、何波目が大きいのか、津波描写で多い「最初に引く」かは、地盤地下の有無、地形と津波の波長で決まる共振条件によって変わるので、何か一つのパターンに固定してはならない。隆起した土地ではまず水が引くし、沈降した土地では当然いきなり流れ込んでくる。これは揺れを感じたらまずは身を守り、我慢できる程度まで緩やかになったら全力で高いところを目指す。これが「最大の確率」であることを示唆する。
●次へ向かって
「東海」:1096-1498-1605?-1707-1854-?
古いほど文献が不確かになるうえ、地質学的な知見も少なくなる。慶長地震(1605)なんか津波の分布自体は南海トラフ相当だが、対応した震害は記録されていない。明治三陸地震のような「津波地震」の南海トラフ版とも考えられるが、正確なところは不明である。新たに分かったと言えることは「南海トラフ」にもいろいろなパターンがあるということだ。例えば1498年明応地震では伊勢湾の中にある津市が津波で壊滅している。どちらにせよ「次」では東海が動くであろう。過去100年、通常のプレート潜り込みに加え、濃尾地震と東北地方太平洋沖地震、ストレスは重なっている。
名古屋人として恐れているのは「震度5を知らぬ街」ゆえのパニックである。3分だの5分だの時計をじっと眺めていて欲しい、ことのほか長い時間であることが分かる。その時間震度4以上が継続する。連動型の場合2度3度と震幅が大きくなる。
(これで2分)
・起震車等「ゆれ」を体験して頂きたい
・「身の安全の図れる場所」の確保を
・最後の手段は携帯の緊急地震速報
・訓練を真剣に
3.11だの先の長野県北部だの経験できたのは貴重で大切なことだと思うし、踏まえて拡散する義務があると思っている。
(中島飛行機の動員学徒、金山政喜)
ソース:総じてこの辺
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