格闘技に惹かれない
書いてる話に「戦い」は出て来るし、柔道の授業はマジメに受けてた。
それ自体がショーとして古代から成立していたことは理解する。ローマのコロッセオ最大の見世物は拳闘だった。ダークサイドの派生が「さつじん」で、奴隷によるその手のショーは最高の背徳イベントだった。
闘牛や猛獣との肉弾格闘など、エンディングが「死」となるショーはその代替だったという見方もできよう。
でもオレ好きじゃない。なぜだろう、傷つける痛めつけるを生理的に嫌悪する自我が存在する。
幼なじみの女の子が成人後格闘の道に進んだと知ってちょっと嫌悪したことがある(引退済み)。差別意識と言われても否定できない。そのくらい「イヤ」と感じる気持ちがある。母親に言わすと「お前は虫が好きなくらいだからねぇ」だそうな。そうだろうか、逆に害虫の類い容赦なく殺すが。
背徳イベントの極致として、南半球T島で、「人間狩り」が行われていたことはよく知られている(ぐぐれ)。サディズムに人種差別意識が合体したもので、結果、「差別をしてはいけません」と法で縛る羽目になった。その手の法は差別意識がその国・民族にDNAレベルで根ざしていることを裏書きする。対象の差違こそあれ、特定の何かを忌避する情動は誰しも持っているのかも知れぬ。
否、単に人の心に存在するダークサイドを見て見ぬふりしたいだけかも知れない。いい子ぶりっこのゲシュタルト一表出なのかも知れない。人類は長く飢餓だったと良く書いているが、飢餓の中で生き延びようとしたら自分以外を殺して奪うが最終手段になる。応じたDNAは発動待機状態で万人に絶対に刻まれている。ならば、この情動は覆い隠したつもりの愚かな自己陶酔に過ぎない。
或いは、「負けるのがイヤだから戦いという存在自体を否定する」…そっちかも知れない。なら、昆虫に対する態度や姿勢もそれに基づく「上から目線の守る・弱いから殺す」と説明が付く。う~んどうやらこれっぽいぞ。オレは弱いと自覚してるんだ。
そういうヤツは攻撃を受けた時相手を殺すくらいの勢いがないと本当に敗北(≒死)する。もしアナタがこの記事に親近感を覚え、なおかつこれから夫や父になるという身であるなら、応じた覚悟と意気がなければならない。
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