抒情の奇妙な歌会in名古屋2016~笹公人さんをお迎えして~
笹公人さん。歌人。歌集「念力家族」はNHKのEテレでドラマ化された。
短歌は師範の元で短歌誌に出し、良作だと大きく表示されたり……という形で技量と名を上げて行く。以外に、歌会に作品を持ち寄り、相互に批評し合い、「刺激」「気づき」「糧」を得る。笹さんはお住まい東京だが、定期的に名古屋へ来ていただけるようになった。お迎えして歌会である。
凡庸←万人受けを狙う VS 個性を尖らせる→マニアックすぎて理解できない
一例を挙げたが創作表現はこの手のバランスが大事。なおかつ場面が浮かぶ、五感が動く、心象に共感できる。……理屈で書くと難しくなってくる。ちなみに全て兼ね備えようとすると丸くなって凡庸そのものになるという切歯扼腕。結局、尖らせ方のセンスと「感性」という、それこそ凡庸な書き方しか求められる方向性の表現のしようがない。ただ言えるのは、反応を計算して作ると失敗するということ。心揺さぶられたあるがままを、故意に揺さぶろうと思わず、三十一文字に集約する。そぎ落として。そう、光集約するレンズのように。拡散するのは読み手の感性。
ちなみに歌会はコテンパンのけなし合いをする地域・参加者もあるようだが、ウチは感性も職種(知識)も多様なので、なにがしか知識の集約と分散(それこそレンズと同じ)が行われ、必ず「気づき」と「知らなかった何か」を参加者が持ち帰れるのが特徴、というかそうなるように努力している。お疲れ様&ありがとうございました。
拙作
・題詠「草」
刈り取られ茶色くなった堤防でショウリョウバッタを拾って帰る(評価1/14)
【解説】土盛り堤防の草むらにバッタ取りに行ったら、草が全部刈られて丸坊主。基本バッタは住めない状態になったのだが、ショウリョウバッタだけ緑で一匹ぽつんといたので取って帰った。子供の頃の記憶に基づく
「堤防」という表現が失敗だった。コンクリかちかちのタイプを思い起こさせた。「ショウリョウバッタの『生命感』を強調したかったら、草むら焼いた方が良かったのでは?」なるほど。
・自由詠
終わったら身体ゆすってぶるんぶるん見栄を張るなり旅先の厠(評価0/14)
【解説】見たまんま。ネタ狙い。笑いが取れたので良しとする。こーゆーのが許されるのがウチの特徴。
「でかいのを自慢したいのかコンプレックスで虚栄を張りたいのか判りづらい」……はい。
季語など縛りのある俳句より緩い。そんな短歌の世界でも更に緩い。その緩さが裾野を広げる。いい加減上向いて登れ?。うん、裾野をぐるぐるしてると、裾野の広さ故に時間ばかり消費する。それは判っている。ただ登山路が、「短歌が好きで短歌始めた人」とは異なるアプローチラインがまだ固まらない。電子の挙動で仕事してる人間ならではにして共感を得られる短歌ってどんなもんだろう。
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