多様性の方が重要では?
ロボット系→ハルヒ→魔法少女→なろう系
こんな感じか?最近のアニメの潮流は。
「ウケている潮流に乗る」ってのはマーケティングの基本なんでやんすよ。トレンドに従ったコンテンツには概要の予想がつくのである種の安心感がありますわね。それこそ「スタンダード」ですわ。スタンダードの水準を備えている状態、その充実度を示す指標を「一元的品質」言います。前にも書いた気がするけどね。
(https://www.juse.or.jp/departmental/point02/08.html )
だから例えば、同じ魔法少女物でも「テンプレ的要素」が揃っていないと叩かれることになる。この図でいう「不満足・不充足」の象限ですわね。「当たり前品質」に達していないわけ。で、そう、気づかれた方多いと思うけど、「なろう系」はテンプレの集合体なので「一元的品質」のエッセンスを集約した形態、と言える。そこに少しずつ「新しい試み」が付加されて、それがどんな作品にも見られるようになる…テンプレ化して「当たり前」の水準が底上げされる。ただ、みんなそれになってしまう…スタンダードになると、「またか」になってしまって一気につまらなくなる。
すると「それまでにない新しい何か」を備えたものが魅力的になる。ハルヒに相当する画期の誕生である。実際には遡ると、子供向けの表現手段であったアニメに「美少女」へフォーカスした「プロジェクトA子」あたりが根本的な画期であって、すべてのアニメは「萌え」を軸とする一元的品質の延長線上にあるかもしれぬ。
さておく。
そうなると画期的作品がもたらした表現や世界観のエッセンスこそが、後進に対してテンプレ要素の提示となり、そこから再び類型の底上げが始まる…の繰り返しであると見えてくる。画期→テンプレ化→飽和→画期…が繰り返されれば幸せな上昇曲線、こうなる。
であれば。
この論評に言う「世界の潮流に倣え」は実に的外れな主張であると言わざるを得ない。真の大人向けだの書いてるが、それはそれで日本が先頭に立ち作ってきた「アニメの潮流」に対して、画期を作ろうという彼らの努力の結果以外の何物でもあるまい。それに感銘を受けたならそれで作ってもらえばよくて、その感銘を正義として押し付けるのは勘違いだ。日常系でもいいじゃないか、ストーリーがなくてもいいじゃないか。スラップスティックでコケティッシュでおっぱいでもいいじゃないか。それもまた画期への試みだし、潮流への反旗で脱力なのだ。宇宙のインフレーションのようにポコポコ多方面作られる日本があるのに、海外をありがたがる意味がない。闇雲にドイツ車をありがたがる、さらに言えば占領下のギブミーチョコレートと何の違いがある。貧しい舶来至上主義にしか感ぜられない。批判、皮肉、芸術性?やりたい奴がやればいい。
テンプレを押し付けんじゃねぇよ。そりゃ画期への胎動…多様化の邪魔だ。
「グローバルスタンダード」を声高に叫ぶ人がいて「多様化」を声高に叫ぶ人がいる。「多様化を受け入れることこそグローバルスタンダードだ」とかね。でも日本の「在り様」ってそういう多様化の一形態じゃないのか。同じ言葉を話すようになった人々で作られた島国という、類例少なき存在ゆえの価値観・在り様じゃないのか。世界樹から見たら枝葉であろう。なぜそこに文句をつけ断ち切ろうとする必要がある。枝葉を幹にする必要がある。まして創作活動に「べき論」かざすとかもってのほか。自由だから多様化を導くのだし、画期の原動力となる。スタンダードに倣えは後追いに過ぎず、画期とは真逆。「みんな一緒」と「多様化」は実は相いれない対義。多様化を標榜する国の実態を、この論評者の奉じる国を見るがよい。「人種差別」を態々法で禁止しないとならない。抑止力がないと「ナチュラルにそういうことをやる」ということだ。いみじくもコロナウィルスがそこ化けの皮を剥がしてくれたじゃないか。
べきとか言い出したら創作なんか無理。おっぱいアニメばっかでイヤなら文句付けてないでそうじゃないの作ればいいだけの話。作りたい人がいて見たい人がいれば「当たり前」は成立する。その成立する位置や形態に何らか束縛を与える無意味さ。
作りたいもの作ればそのうち当たる奴が出る。当たればそれが「画期」となり儲けもの。新たなグローバルスタンダード爆誕。ただそんだけ。
追うな。生み出せ。従ってこんなたわ言はほっとけ。
さーて「超原子」どう使おうかねぇ。
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