五十にして天命を知る
「知命」とも。信長は死んでた年齢だぜ。ケーキで祝ってもらえる家族に感謝。
天命とは天の命令だが、要は使命・ライフワークのことだと言われる。運命とする向きもある。
製造後50年の中古品になったわけだが、身体の衰えは否定するだけ野暮。老眼はあからさまだし、腰痛も「ある」時間の方が長い。中年太りに陥ってはいないが基礎代謝が落ちたらしく身体が冷えると温まるのが遅い。ハゲの進行は遅いが毛髪が弱く細くなった。
創作意欲は脳活力のバロメータだと思うが、書きたいものの在庫をいつでも持ってるわけではなくなった。ただこれは新しい物=既存にない物=新しい知見の吸収が必要であるのに対し、知見(興味とも言う)というのが減ってきたからだという観測もある。それでも超原子とかその辺くすぐられる文言内容で何がしかのアウトプットになればと思う。
新しいものに対する興味の有無はまだら模様。ただテクニカルな内容はついて行けてるようで(少なくとも新技術に対して何やってんだこれ、というのはない)、これはありがたい。
困っているのはオーディオヲタのくせに「新たにファンになりたい歌手」ってのがいないこと。歌詞に共感できないってのは致命的だが、それでもkalafinaなんか新たに好きになれたわけで、感性が年寄りなのか。「高齢者がアイドルを馬鹿にする」構図は過去からあるが、自分も高齢者になったのかもしれない。生きた時代が転写されてる歌詞しか共感できないってのは損失なのだが。
さて冒頭の天命。仕事と家庭を除けば災害史の研究と防災活動はライフワークになりうるか。趣味として引きずっているのは鉄道と天文。短歌は単に三十一文字に作りこむのは出来るのだが、感覚に訴える芸術性を具備する必要があり、それには詩人の感性を要求される。その辺で苦戦している。
だからっていきなり何か変わるわけではないが、進取の気性を失うとただの老害と化すので、「あたらしいおもしろい」は追いかけ続けていたい。
« 今日は土曜日 | トップページ | バリエーションが足りない2 #鉄道模型 »
コメント