タイミングの問題
高齢の家族が独力で生活するのが難しくなった場合、応じた施設での生活に移行する、というタイミングがどこかで出てくる。
・事前に理解を得ておく
・もう夢見人になってから移行する
「理解」と書いたがその水準及び「本意かどうか」の判断は非常に難しい。施設に行くのが「一方通行」となった場合、理論上最適であっても感情はそうは行かないからだ。自分なら線路を走る者どもや天体望遠鏡、オーディオ機器ともさようならである。ヘッドホン被って本を読んだりwebを見たりという「ある程度の代替手段」は得られるが、「元には戻らない」。このイベントホライズンを越えてしまうのは、自分自身は理解しているつもりでも、現実として突きつけられた瞬間に動揺せずに済むかどうかは分からない。まだ先過ぎて現実感がないのだろうか。
「いや、父は素直に行ったよ」
そういう方は一定数あると思われる。それは、「父として家族全体の最大幸福は自分が移動すること」との判断をして下さったと書けよう。「本意かどうか」はまた別である。良く書くが、喪失感や絶望感は一気に認知症を進行させる。「父」のその後に真意が表れているのではあるまいか。自分の父の場合、連合弁膜症手術における「最大のリスク」の説明の場で、手元が震えていたのを覚えている。
義父は骨折を得て立ち居に困難が生じている状態である。我々に迷惑掛けてと頭を下げてばかりいる。それに備えて共に暮らし、在宅勤務は大いに好都合なのであるが、遠慮恐縮の気持ちも分かる。「ひとりで出来ないかん」…手取り足取りしづらい部分、あるレベルを超えると我々では手に負えない部分。施設へ行くことの心理的影響。
「何かあっても適切に対応して貰えるから安心して」
複数のトレードオフの落とし所はこの辺か。
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