リマインド大震災(3月12日の記)
11日の夜は会議室が仮眠用に開放された。しかし時々刻々大きくなる被害の有様に「寝る」という気分にならない。一方でビールかっくらってがーがー寝ている人も。
東海道新幹線が動き出したので、鎌倉住まいの方は「新横浜まで行く」と退社した。その先は「何とかする」とか。
自分は千葉であって、JRの総武・京葉、京成の3ルート存在するが、地下鉄・京成は12日始発から動かす予定との情報を得ていた。そこで同じ千葉方面の方と始発で東西線西船橋へ抜け、JR・京成どっちが動いても対応できるようにしよう、となった。
多少うとうとしただろうか、午前4時前。
緊急地震速報に起こされる。付けっぱなしの会議室のテレビを覗くと、長野県北部…栄村?
父親の郷里は須坂である。
「起きてた?」
「起きてた。やばいな。通じないかも知れないけれど確認するだけしとき」
「おう」
夜が明けてくる。始発電車に向けて退社するタイミングである。同じ千葉の方とオフィスを後にする。
オフィスビルは欠けた壁材がポロポロとこぼれている。ガラスが割れているところは無い。地下道にはパイロンとロープで仕切られた雑魚寝スペースが作られている。だが、幾ら空調された地下道とはいえ、冷たいコンクリ床に寝ている人はいなかった。
地下鉄東西線は意に反して座ることが出来た。ただ走り出すと、
「ごんごんごんごん」「ごろごろごろごろ」
車輪が真円じゃない故の騒音と振動。「タイヤフラット」というのだが、急ブレーキで車輪がロックされ、レールの上をスリップすることで削られて出来る。恐らくは緊急地震速報に伴う急停止の繰り返し。
行ってるそばから止まる「緊急地震速報を受信しました」
普通なら、この規模と距離の地震で東京に速報は出ない。破損して動かない地震計が多く、速報精度が落ちているのだ。電車は幾度か速報で動いて止まりを繰り返し、西船橋まで1時間。が、総武線のホームに回ると「運転開始は未定です」。理由は速報が来たので線路の安全確認。再開までは当分掛かりそう。
「僕はここから歩いても帰れるから」
とはその一緒に来た会社の人。
なら、後は自分勝手に動いて良い。歩いて京成西船。
上野から超満員の電車が来たが構わず押し込む。カバンを身から離さないようにするのが精一杯。
駅に着くたび、一旦人が降りて、その駅で本当に降りる人が降りて、詰め込みがあって、何度もドアの閉め直しをして。
隣の駅まで5分要する。乗換駅津田沼まで1時間。
千葉行きは既に満員。構わず乗り込んで超満員。
「もう一本乗り継ぎを待ってからの発車となります」
正気か京成。
超満員の電車が到着し、超満員に乗り込んできて息苦しいほど。
そこから千葉まで1時間。何と家に帰り着くまで総計5時間。もう昼前だ。
駅前のコンビニで新聞を求める。惣菜やパンの棚はすっからかんだ。千葉は農業県だが物流が止まって食い物が無いというのはありうる。
パン屋に寄ると営業中。機械類は無事なのでいつも通り営業を始めた由。家族3人1食分多めに求めて帰る。
妻子の顔を見てホッとする、家の被害は軽微、花瓶が割れたのと、スピーカーを載せていた突っ張り棒が倒れたのと。
鉄道模型の線路が潰されたくらい。
凄絶すぎて言葉も無い。
昨日の出来事を妻と娘に聞く。
自宅PCにはウェザーニューズの「Last10-second」が入れてある。
「作動して地震が来るのは分かった。でも最初「震度2」だったから、こんなに大きくなるとは思わなかった」
地震で飛び出す食器棚のストッパー。これは活躍し、扉は開かなかった。但し、扉の内側で皿は落ちて割れている。開けるのに一工夫要したという。
娘は学校が終わって帰宅途中だった。とはいえ住んでるアパートから子供の足で徒歩5分というところ。
「変な感じがあって揺れてることが分かった。1号棟の壁のところでしゃがんでいたら通りがかりの郵便局の人がそばまで来てくれた」
耐震設計され、その通りの強度を発揮したオフィスビル。フラットだらけになりながらも走ってくれた電車。長く大きな揺れの中、ランドセルの女の子そばまで来てくれた見知らぬ人。
我々は守られ、生き延びた。感謝し、そして祈った。
(続く)
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