父の「新居」
湯灌をしてもらい父の髪を洗う。最後に背中を洗ったのは45年も前であろうか。思い出すことも無かった幼い日々の記憶が紡ぎ出される。思い出を語ってくれ、涙してくれる家族、親族、近所の方々、感謝の気持ちは沸くが、自分自身は、「死による悲しみ」はあまりない。ひとつ、自分は父を見て育ち、自らも父となり、そこで父をフィードバックしたのである。自分は父を受け継いだと信じる。だから父はこの身と心の中に生き続ける。ゆえに悲しむ必然はない。ふたつ、心臓手術をしろと、その先の選択を促したのは自分である。その結果がこうなったのであるから、悲しいというのは父に決断を悔やむという意思に繋がる。それを称えども否定するようなことはしたくない。
三途の川の向こうで役立つ手甲脚絆を身につけさせる。痛がっていたふくらはぎ、皺や傷跡が苦しかったであろうことを物語る。でももう、痛くないよ。旅立ちの船に収まり、孫達が作った、「好きなもの」をかたどった折り紙に囲まれる。「孫がいること」これは我々兄弟最大の「親孝行」なのだと再認識。
蓋をするぜ。そして。仏具を置く、台。
父ちゃんよ、新居はここだよ。どこに置けばいいかい?
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