次は蒲生の頃
「特急」に乗るのに特別料金が必要な私鉄は結構多いが、「急行」でも、となると相当なレアと言って良い。令和の現在、列車の存在自体が観光対象のいすみや大井川のSLを除くと、秋田内陸縦貫鉄道の「もりよし」、秩父鉄道の「秩父路」、位ではないのか。
東武急行「りょうもう」(中央)。浅草から伊勢崎線(スカイツリーライン?うっせぇわ)太田・赤城・桐生を結んだ。そこいら工業地帯で、「ビジネス急行」を標榜した。日光・鬼怒川へ向かう特急「きぬ」「けごん」(手前)が国鉄グリーン車並みのリクライニングシートを備えたのに対し、リクライニングしないシートで「ワンランク下」であり、「急行」らしい内装と言えた。記憶が確かならば父にせがんで館林まで往復しているはずである。
奥手は日光鬼怒川へ走った快速やその座席指定列車で快速急行と称した「だいや」(大谷)「おじか」(男鹿)である。北千住の次は春日部なので、越谷民のボクチャンは線路際から見上げるだけの存在だった。勾配と長距離を走る装備でギッチギチという理由で冷房が搭載されず、方や「りょうもう」がフル空調だったことから「快速以上急行未満」という位置づけで「快速急行」となった。
以上、50年前。ようやく、模型でお出まし。
いま、スカイツリーライン()で急行というと、ステンレスの通勤電車が来る。もちろん、料金なんか取らない。
南越谷駅及び越谷貨物ターミナル。昭和48年。新越谷駅なんてモノはねーんだよ。
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