オリエント急行・見つかる
オリエント急行。
アガサ・クリスティのミステリ作品であまりにも有名なこの列車は、1883年にパリ=コンスタンティノープル(→イスタンブール)間で運転を開始し、「ロンドンでメイド付きのアパートが1年間借りられる」旅費と、応じた豪華さで知られた。これはその当時国際旅行に出かけるのは王侯貴族か高級軍人、スパイ(!)などに限られたせいだが、2度の大戦を経て飛行機が一般化すると急速に斜陽化、1977年、直系の列車が運転を終了し、その命脈は尽きた。しかし、それを悲しがった篤志家が廃車や保存車をかき集めて復古、日本で言うと「四季島」や「ななつ星」などと同じ、クルーズトレインとして蘇った。方や今も日本から普通に予約できるベルモンド社が運行するヴェニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)
(アクセス)
であり、こなた1988年冬、日本列島を走ったノスタルジー・イスタンブール・オリエントエクスプレス(NIOE)
(このパンフは模型のおまけ。富士山バックの写真は南正時さん)
であった。そう、日本を走ったのよこの人達。ちなみに1910年頃ウラジオストクまで乗り入れて海路日本旅行という計画があったが、日露戦争でおじゃんになっている。その意味では「真のオリエント」ジャポンへ走行開始より100年余を経てついに到達したとも言える。
(当時の国際連絡港・敦賀へ入るルートである。「オリエント急行」教育社)
で。
(「オリエント急行」教育社)
NIOE編成は明けて1989・昭和64年、自粛モード極まる日本を後に海路欧州へ帰ったのであったが、運営会社(イントラフルーク社)が破産、
箱根・ラリック美術館が引き取ったプルマン車4158号を除き、各車所在不明に陥ったのである。
で、今日見たのがこの記事。オリエント急行の客車を作ったのは「ワゴンリ社」(Compagnie internationale des wagons-lits:国際寝台車会社)なのだが、応じたマニアがいて、車号を突っ込むと履歴と写真が得られるようなデータベースができている。今更「謎」とか……と思って読み進めると。
どうやら、所在不明だったNIOEの車両をYouTubeの動画を元に発見したらしい。ポーランドとベラルーシの国境沿いのマワシェビチェ駅に13両ずらっと繋がった状態で留め置かれてあったと。
(元動画これっぽい)
記事から車号を読み取ると「3909」と見える。1949年にベルギーで製造された「Y型寝台車」だ。NIOEではスタッフ車として使用されていた。
日本にも来ている。動画では来日したバー車4164、食堂車代わりに使ったプルマン車4149、Lx寝台車3542、3472、3487、3551……さて記事によるとイタリアの会社が復古して2024年から走らせたいという。NIOE編成は基本、1920年代に製造されたLx型寝台車(1両に個室10室定員10名。ボーイ=給仕付き)を、廃車後「基本的に手を入れず」そのまま使ったため、こいつらは「100年前」の状態のママである可能性が高い。走らせるなら応じた現代の強度・防火基準に適合しつつ、マホガニーをふんだんに使った床や壁、ゴブラン織りの背もたれカバー、ルネ・ラリックのガラスパネル、エミール・ガレのランプシェードなど「走るアールヌーボー」であるから、かなり手間と時間とお金の掛かるレストアが必要ではあろう。動画を見ると車体中央にあるべき向かい獅子の紋章は剥ぎ取られて見当たらぬ。が、まぁ、お金は心配あるまい。世界中から集まるに相違ない。
鉄道が持つロマンの最高峰、オリエント急行に栄光あれ。
(オリ急のメインはS型でLxはコートダジュール急行がメインだったとか野暮な突っ込みはナシで)
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