鉄道150年に寄す
1号機関車。後の鉄道院150形式。150年前・明治5年、新橋-横浜間に日本で最初の鉄道が開業したとき走った機関車の一員。本物。大宮の鉄道博物館蔵。なお、この姿は明治30年頃を再現したとか。この子自体のエピソードは存在故にたくさんあるのだが、ちょっと面白いのは現在の武豊線にひところ派遣されており、中山道鉄道(現在の中央本線など)の工事にも使役されていたこと。名古屋とも縁のある機関車なのだ。
さて名古屋、というか犬山の「明治村」には当時の鉄道車両が幾らか保存されていて動くものもいる。
12号機関車。明治7年導入。こちらは後に160形式とされた。石炭食って動いているが、実はボイラー自体は平成になって交換されている。
通称N電。線路の幅が狭い(Narrow)の意。京都市電として明治43年頃製造されたもの。木造車なのでガタピシ言いながら走る。鉄の枠の上に「家」を載せたような構造だからしゃぁない。
当時の御料車6号。すなわち天皇陛下の御乗用。時折、特別公開される。
さて自分の生まれは昭和45年で、国鉄線から営業用のSLが消えたのは昭和50年であるから、自分の幼少期には「通常営業中のSL」がまだ存在していた。これはそのわずか5年の間に撮ってもらえた唯一の写真で、人物は祖母と1歳か2歳の自分、そしてC57形151号機である。
「汽車さえ見せていればおとなしくしていた」とは祖母の述懐だが、これで目覚めたのか、生まれつき鉄でその「おとなしくさせるために」見せていたのか不明だが、現代で言うところのADHDであったから、まぁ後者であろう。
以降なんだかんだ線路沿いに住まい、鉄路を使って行き来し、そして今また鉄路のそばに住まい、家の中にも鉄路があるのであるw
さておく。テレビや音楽が「みんなで同じもの」から「手のひらで個人個人」へ展開したのと同じ流れで、「移動手段」も「クルマで個人個人」へ広がる……人はそれをモータリゼーションと呼んだ……のであるが、それが極致化したアメリカ等に比して、日本は一定レベルで歯止めが掛かりバランスした。言うまでもなく新幹線の出現である。飛行機(時速500~800km)自動車(100km)の中間に位置する高速高頻度交通機関は大都市が数珠繋ぎになっている日本の国土構造にベストマッチであった。それは文字通り日本の人的大動脈として発展に寄与した。
ただその神通力は鉄道の基本……高頻度大量輸送が成立してこそ発揮される。ゆえに敵こそは少子高齢化であると言える。限界を下回った地域へ高速路線を延ばしてもそもそもの需要がない。このことは「新幹線で100万都市と直結されることを前提とした新たな街作り」を開通と一体として実施する要を示唆する。安中榛名……どうしてああなった。
都市域をシュリンクし、密度を上げて商店の利用効率や移動距離の短縮を図ろうという動きが始まっている。現在居住する高齢者に対しては移住を強いるので難しかろうが、社会人として独立して行く若い世代に対してはリモートワークの平易かと相俟って説得力を持つであろう。そうした「小型高密度都市」と大都市を高速で直結する手段として新幹線を使うのは悪い手とは思わない。各都市を結ぶフィーダ輸送と連携すれば豊かな住環境から大都市へ手軽に行き来できる日本の新しい姿を描くことができる。
令和日本列島改造論。今こそ。
(大げさなオチだな)
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