485系とその一族に誉あれ
交直両用特急型電車485系(481・483・485・489系)。1964年10月1日の東海道新幹線開業をトリガに彼らは生まれた。その新幹線開通区間である大阪より西へ博多へ。電化なった北陸路へ。そして1968年10月1日、後に「ヨンサントオ」と呼ばれた大規模なダイヤ改正を機に東北路へも投入。ここに高度経済成長期のニッポンを支える動脈とも言える特急網の主役となった。
ただ、新幹線によって生まれた彼らは、同時に新幹線に追われる存在を運命づけられていた。まず新幹線が岡山・博多へ伸びると、運転区間もその更に西へと移動し、博多開業後は九州の中だけで運用されるようになった。「直流」で電化された山陽本線と「交流」で電化された九州島内を直通出来るよう「交直両用」で製造された彼らであったが、九州を終の棲家と定められた者達はそのまま交流架線の下だけで余生を過ごした。
上野発の仲間達は「ひばり」「あいづ」「つばさ」「やまばと」「やまびこ」「はつかり」そして「ひたち」と北帰行をアシストしふるさとへの足として縦横無尽に活躍した。しかし1982年より東北新幹線の開業・延伸が始まると同様にその活躍は北へ北へと移動していった。ただその中で青函トンネルを彼らにとっての最高速度140キロで疾駆したのは「特別急行」の至高の使命である「速さ」の頂点を極めた姿であった。
そうした中にあって大阪から北陸へ向かう彼らは長距離を長編成かつ高速で疾駆する区間として文字通り君臨した。金沢・富山へ向かった「雷鳥」がエースであれば、最長1023キロを走破し青森へ至る「白鳥」はクイーンであった。雪煙を蹴立てて先を急ぐ姿はどのシーンもドラマであった。いまその重責は「サンダーバード」を名乗る681/683系が承継し、そして間もなく、北陸新幹線の敦賀開業により、その痕跡は今度は直流区間のみへ縮まる。
運転区間が縮まると1453両もの仲間達には当然余剰が生じる。こいつのようにお座敷電車やサロン電車にされた者、まさかの私鉄東武鉄道に乗り入れて日光へ顔を出す者まで現れた。が、それも令和の曙を見るまで。2022年「リゾートやまどり」に改造された連中がスクラップされ、58年余に渡る活躍は終止符を打った。
2024年3月、北陸新幹線敦賀開業により、「新幹線の先」を結び続けた彼らの主戦場はほぼ姿を消す。サンダーバードら後継者を含めて負った使命の終焉を意味する。12連120キロで駆け巡った栄光と共に。
特別急行電車485系に誉あれ。
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