分かっていたけど突きつけられると
時刻表を買ってきて北陸本線のページを開くとたったこれだけになっていた。まるでアニメ版「幻魔大戦」で最後の戦いでエネルギーを使い切り、小さな光の球になってしまったサイボーグ戦士ベガのようだ。日本海側の大幹線として遙か青森まで1000km連なる日本海縦貫線第1走者は、新幹線に速達旅客の流動を明け渡すことで、わずか45.9kmを残すのみとなるのである。知ってたこと。とはいえ、見せつけられると。
東海道本線は明治22(1889)年に開通しているが、その線路は先に現在の北陸本線・長浜に接続され、琵琶湖を挟んで大津との間で汽船連絡が取られていた。この時点で北陸本線は敦賀港まで開通しており、明治17年時点で東京から敦賀港までが大阪より先に線路が繋がっていたのである。これは明治政府が敦賀を国際貿易港と位置づけ、ユーラシア大陸を遙かヨーロッパを見据えた交通網を構築せんとした目論見の結果である。この時代の客車グレードは3等級であったが、「1等車」は東京発の特別急行にしか連結されておらず(明智小五郎が乗っていたことに注意)、その行き先の一つが敦賀港だったと書けば、この46キロ区間のステータスの高さがお分かり頂けるだろう。何のことはない、始祖の姿に戻ったのである。
そして「廃線」で切り刻まれ本数が減らされて時刻表上で手のひらサイズで収まってしまう「かつての大幹線」と違い、北陸本線の重幹線としての任務自体に変わりはない。敦賀以南の新幹線乗り継ぎ旅客を湖西線と手分けして担うほか、長大な貨物列車が北上南下して物流の動脈機能を果たす。雷鳥→サンダーバードシリーズや、長駆青森を目指した「白鳥」「きたぐに」そして「トワイライトエクスプレス」遡って米原発直江津経由上野行きドン行とか、「人生の相棒」として旅する人々に寄り添う線路としての北陸本線は歴史の1ページに変わるけれども、より地元に密着した近隣都市間相互輸送にモードチェンジしてこれからを走り続ける。
「なんで電車2両しか無いのにこんなにホームが長いの?」
「ここから東京にもヨーロッパにも行けたからだよ」
令和もなお起点なり。
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