東海道新幹線・還暦
「なんで始祖の0系でも最新のN700Sでもなく100系なんだよ」
「好きだからだよ」
『弾丸列車』という戦前の超特急計画を端緒とすることは広く知られている。線路の幅を広くして大型で強力な機関車により時速160キロでの運転を目指した。南満州鉄道の「あじあ号」はその先駆的な具体化であり、実際一部用地買収やトンネル掘削も始まっていた。が、終戦。
戦後、復興及び朝鮮戦争特需で鉄道輸送、とりわけ東海道本線の輸送量は限界を超えていた。その間車両技術が進展し、機関車が客車を牽く、のではなく、客車に直接動力を持たせる電動客車=電車による長編成・長距離運転が可能になってきていた。
「電車を、線路の幅を広くして走らせてやれば、相当な高速でも安定走行が見込める」
1957年5月、当時の国鉄は特別講演を開き、その旨と要否を世に問う。「超特急列車 東京-大阪間3時間への可能性 」……当時東京-大阪間は特別急行「つばめ」で7時間半を要していた。それが「半分」になる。画期どころの騒ぎではなく、令和風に言うならワープ宇宙船の開発が可能!位の「嘘やろ!?」のインパクトがあったと考えて良い。新幹線が開通する7年前の話である。
以降は急ピッチで、翌58年には建設計画が閣議承認、59年着工し、1964年10月1日、新大阪まで開通する。車両の方は62年から試験走行を行い、当時の最高記録256km/hを達成したのは1963年3月30日。開業の1年半前。
「時速200キロで連続走行を安定して行えるように」250キロの能力が与えられた。
ちなみに建設に世界銀行からカネを借りたこともあって「そこまでして必要か?」議論もあったようである。が、結果は東名阪を直結し「経済のインフラ」になったことはご存じの通り。
で、以下自分語りなのだが(このブログの名前は「オレニュース」です)。記憶の一番底にある新幹線の記憶は、絵本「ひかりごう」に岡山開業の新聞記事を挟んでもらって喜んでいる図である。2歳児は当然岡山までの駅名は暗記していたw
ちなみに童謡「はしれちょうとっきゅう」で♪じそく250きろ~という歌詞に対し「210キロだろがよ」とケチを付けていたクソガキである(というか試験走行の数値なのに歌を聴いた他の人が営業速度も250キロと勘違いするのでは?と心配した故)。
さてこの時代、「新幹線」は鉄かどうかに寄らず男の子の憧れだった。「世界最速」で「日本最長の16両編成」なのだ。見たい乗りたい存在で、自分もオヤジにだだこねて東京-小田原を「こだま」に乗せてもらった。ただ憧れは「あおいひかりのちょうとっきゅう」なのだった。
転機は昭和50年3月に訪れる。新幹線が博多まで開業したのだ。博多は母親の郷里「おばあちゃんち」に遊びに行く「定期的に乗る列車」に新幹線が加わったのだ。
当時東京-博多6時間50分(のち6時間半)。母親には退屈であっただろうが、自分には全長400m16両編成の走るテーマパークだった。車販でジュースや「シンカンセンスゴイカタイアイス」を買ってもらい、食堂車でハンバーグを食べ、トイレのそばの給水器で冷たい水を飲み、電話室からおばあちゃんに電話をし、トンネルだらけで退屈な山陽区間は列車を端から端まで散歩。幼稚園児が新幹線車中を一人でスタコラ歩いているとか今なら事案だが、逆にニコニコ見送られたものだ。
「ボクどこから来たの?」
「13号車5番E」←年長
時を経て旅行アイテムから「足」に変わるきっかけは無論就職である。東京で入社式から研修先の京都へGO。1992年だからそう、新幹線の主力車種は模型写真の100系。以後出張で帰省で東上西下の足となった。「のぞみ」を迎え、100系を見送り、500系をわざわざ選んだ。EX-ICは会社に持たされたが、個人利用は禁止とのことで自分用に1枚持っている。EX-IC2枚持ち。スマホでブッキングし、改札をカードでひっぱたいて食い物飲み物買い込んでリクライニングに身を預ける。
開業60年で東京ー新大阪は2時間20分。そして東京-博多「最速の裏シンデレラ」のぞみ64号にて4時間45分。
— すのぴ@キュア会社員 (@sunop2000) May 4, 2024
さぁ、100年へ向けて、今日も行こうか。
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