新幹線博多に通じて半世紀
昭和50年(1975年)3月10日。山陽新幹線は博多まで通じた。当時5歳の幼稚園児だったボクチャンはこれを大歓迎して家中走り回った。なぜなら母親の郷里が博多であるから「新幹線」に「全線」乗れるからだ。この切符はその帰路多分、祖父が手配してくれた手書きの指定券である。5歳の「幼児」なので本当は切符不要だが、6時間56分(当時)膝に乗せてってワケにも行くまい。
越谷民だったから東武スカイツリーライン伊勢崎線より東京メトロ帝都高速度交通営団日比谷線で地下に潜り、
ここまでは「銀座のデパートにお出かけ」といっしょ。
その途中、上野で降りて「東武に比してガタピシとやかましい」山手線で東京駅へ。
改札をくぐって階段を上がると。
「あおいひかりのちょうとっきゅう」が(これ新神戸駅だけどな)
新幹線自体は小田原まで「こだま」に乗せてもらったことはあった。対して初めての「ひかり」である。当時ひかり号は東京を出ると名古屋であるから、もったらくったら走ってきた新横浜近くまで来てノッチオン。
— すのぴ@キュア会社員 (@sunop2000) May 4, 2024
これが「本当の」新幹線のスピードなのだとしばらく車窓を眺めていた。ちなみに新幹線はレールを何本もつないで「1本数キロ」のロングレールにしておるのだが、この時代、まだ溶接が完璧じゃない部分があって、
切り抜き pic.twitter.com/UXAfqUFNk2
— すのぴ@キュア会社員 (@sunop2000) March 10, 2025
普通の列車で「がたん・ごとん」となるところ、音が繋がってこんな風に聞こえる区間が多かった。これをボクチャンは確か「ぷんかぷんか」と擬音表現していた。幼時がプラレールの新幹線ぷんかぷんか言いながら引きずり回していたらこいつアタマおかしなったんちゃうけ思うだろうよw
さておき、
リクライニングもしないこんなシートで7時間。母親は相当退屈したであろうが、ボクチャンには当時のサービス水準もあって「時速210キロで走る長さ400メートルのテーマパーク」そのものだった。新大阪まではトンネルも少ないので車窓を楽しみ、山陽新幹線区間に入ってトンネルが多くなる頃、
「食堂車行こうか」
「ハンバーグ!」
ニッコニコで飯食ってた自分を見ている母親を憶えているが、母親は何を食べていたのだろうか。
席へ戻るとトンネルだらけで見るものないのであるが。
「お弁当にお茶、コーヒーにジュース、お菓子にアイスクリーム……」
そう、ワゴン販売。
「アイス食べる?」
「うん」
当時スプーンは木製のヘラ状で、まぁ、何本折ったことか。お菓子を買ってもらい、「つぶつぶオレンジ」のカンを自分で開封すると言って一張羅に中身をぶちまけ、トイレは把握しているので一人で行ける。空いてなければグリーン車に行き(グリーン車は基本的に空いているからトイレも空いていることを把握している5歳児)、当時まだ珍しい洋式便器で用足しをし、帰り際冷水機で紙コップの水を飲み。
「何処行ってたの?」
「トイレだよ」
今なら新幹線を前へ後ろへうろつき回る幼児がいたら事案。
そして電話室からおばあちゃんに「もうすぐ着くよ」。
掘り割りとトンネルばかりの単調な車窓に我慢の限界が来る頃、新関門トンネルを抜けてガラリと光の色が変わって九州上陸。
ゲンキンなものでもうすぐおばあちゃんに会えるのと、トンネルが再度少なくなるので元通り大人しく窓の外を見ているのである。
そして、博多。
それは楽しい一週間の始まり。
東京-博多1069キロ。25年3月のダイヤで最速4時間45分。但し、食堂車もビュッフェもワゴン販売も冷水機も無く、人乗せてぶっ飛ばすだけ。
縮んだ時間は2時間10分(タイトルに対する下の句)。
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