協議。
妻と義妹と施設を訪うと伝えたら医師との打ち合わせをセッティングいただいた。「余命宣告」は「あと何ヶ月」とかよく見聞きすると思うが。
「今すぐ、でもおかしくない状態です」
「携帯電話は常に出られるようにしてください」
義父はこの病を得て以降、眠っている時間が多くなっているが、それでも声がけしたり肩を叩くなどしたら目を開けて「人間同士」の会話が出来た。
今日はもう反応しない。
時々目は開くが、まばたきをしておらず、要するに脳の支配下でも自律神経の支配下でもない。
認知症は夢と現実が混交して行くが、夢を見ているかどうかも判らない。
生物の生体機能や生命そのものは「維持できる限界値」(閾値)があって、それを下回ると順次機能は停止して行く。例えが適切でないと怒られそうだが、先の飼い猫の死に瀕して呼べばニャーと答えるが既に体温は著しく低下していた。体温は筋肉で作るが、そこまで低いと低さの故に筋肉が動かせない。従って体温が維持できない。「閾値」を下回ったのである。
「目を通してサインを下さい」
渡されたのは看取りの手引き。義母にせよ父にせよ、いきなり「亡くなった」と通知されたパターンなので、心の準備を要するのは今回が初となる。俗に「ぴんぴんころり」が最良の逝き方と言われるが、意識活動が低下し、何も判らなくなって、何も意識しないというのも、応じて痛みも苦しみも「死に行く恐怖」もないので、悪くないのではないか。
どちらにせよ。自然に任せるのが最も負担が無いことは確かだろう。
義父と「同い年」の電車。
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