宗教とそのまがい物
(サムネ魔除け用)
超能力娘の物語を書いているので宗教を避けて通るのは逆に不自然と。
これ自体に関していうと、地下に潜って再結成でしょうよ、という。
多分こんな具合に。
どう考えてもやってること「異常」なのに何故信じ込むのでしょう。「哲学」を入り口に考察してみましょう。
・人間は基本的に「地球生命」である。地球生命の責務は生き延びて次世代へ命を引き継ぐこと(すなわち繁殖)である。
・あまた地球生命の中でも「人間」に生まれたからには「人間ならでは」の生き方をすることで「人間として生きた」意味を持つ
「宗教のまがい物」は要するに教祖に帰依してお布施すれば天国なり御仏の御許に行けると嘯く。要するに「死後」の幸せを云々する。
生きるために生まれてきたのにそれを否定している。
また、人間は「幸せ」を感じそれを自ら切り開いて獲得して行く生き物だと言え、それこそが人間ならではの特異な部分と書けるだろう。そして「幸せ」は人によって様々なので多様な「生き様」が存在し、個性を、人としての多様性をもたらす。「全財産なげうってお仕えする」ことに幸せを感じる方もあるかも知れない。だが、それを強制するのは筋違いだ。
どこで見聞きしたのか忘れたが、仏教の物言いで印象に残っている一文を紹介したい。釈迦は死に際、偶像を拝むなと言ったのに仏像が沢山あるのはなぜか、という問いに対して。
「拝むのは仏像ではなく仏の道、仏の教えだ。それを考える・思い起こすきっかけとして、天上界への窓として仏像に向かい手を合わせるのは問題ではない」
実はここに「まがい物」を見抜くヒントがある。仏像や教祖ではなく、仏を敬い、言葉と思いを信じろと言っているのだ。「教祖に帰依してお布施」を言い出すのは全部まがい物であると言える。仏教は生きる上での苦しみを取り除くことを目的とし、その主因子を「執着」にあると説く。
智慧(ちえ)の光明はかりなし
有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
真実明(しんじつみょう)に帰命せよ
(親鸞聖人)
あれが欲しいこれが欲しい……ネット世界でよく見る「マウンティング」(※)「承認欲求」なんかその最たるものであろう。そこへ行き着けない葛藤が苦しみとなって顕在化する。だから執着を捨てなさいというのだ。実はお経や真言(呪文)の類いは一心不乱に、すなわち、間違えずに繰り返し唱えることに集中することで、それ以外の余計な考えを入り込ませない、という効果を持っていたりする。孔雀明王の真言を置いておく。迷うなら唱えなさい。おんまゆらきらんでいそわか。
※「智惠の光明」はマウンティングを取りたがる浅はかな「知恵」とちがい、仏のそれは無限の「智惠」だと説いている。なおここは仏様の光はあまねく届いて全部見てくださっているので喜べ、および、隠しても見えている、だから恥じないようにあれ、みたいな解釈をされることが多い
聖書の背表紙出しておいてキリスト教や古いユダヤの伝承を持ってこないのはアレだが、キリスト教ではズバリ「悪魔の誘惑」が同じ事を説いている一例だろう「ようイエス、俺と手を組んで世界を征服しようぜ」……悪魔のささやきは「執着したい人の欲望」の最もテッペンの提示であろう。そして聖書は旧約の最初から新約の黙示録までひたすら「祈れ」と書いてある。一心不乱に祈るのである。そして神を信じ、神の御前で恥じることのない者であれと。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申命記)
あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じることのない働き手、真理の(聖書の、とする訳もある)言葉を正しく伝える者となるように努めなさい(テモテへの手紙)
「縋れ、帰依しろ」ではない。「人間として神や仏の提示する理想を求めろ」「そういう生き様であれ」と言うのだ。
教祖にお布施してもそういう生き様にはならんめ?
イエスはお答えになった「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(マタイによる福音書)
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