あの日のバスと貨物列車と
この1枚に大きく心打たれる人は少なくあるまい。
詳細は多く書かれているので改めてここに書き起こすことはしないが、発災翌日の3月12日土曜日、派遣要請に応じて2台のバスを準備したが、監督省庁の許可が出るのは週明け月曜。「後で怒られよう」文字通りの見切り発車で、毛布1800枚に乾パン1万食「詰め込めるだけ詰め込んで」大阪を発った。路線バスはその仕様と法規から高速道路を走れないので、仙台までの約800キロをぶっ通しで下道である。丸一昼夜を走り通して仙台市に到着した際のスナップがこれである。バスはこの後、復興の足として活躍の後、コミュニティバスとして譲渡された。
被災した現地の各社にはこのほかにも全国から貸与・譲渡され、把握している範囲だと
小田急・京王・横浜市営・名鉄・岐阜・濃飛(岐阜)・名古屋市営・近鉄・尼崎市営・JR四国・東京都営・神姫(兵庫)
など。「復興」「支援」というと人的なそれがクローズアップされることが多いが、彼らもまた「足と力」として送り出され、尽力した。
一方、同じ3月13日。内閣府はJR貨物に被災地への燃料輸送を「指示」(すなわち命令)する。仕向地は盛岡と郡山。ただ、そこへ向かう鉄路は寸断されているので日本海側から大きく迂回しなければならない。
特に新潟から磐越西線を通って郡山へ向かうルートは困難を極めた。雪・山・非電化(ディーゼル)であるから、1列車で運転できるタンク車には制限がある。何より同線では貨物列車が運転終了して久しく、ディーゼル機関車も、運転できる機関士も「ゼロ」の状態であった。
そこで愛知・大阪吹田・福岡門司などからディーゼル機関車を新潟へ集結、一方の機関士も、経験者の招集と突貫工事的な社員講習を行って確保、3月25日から根岸-新潟-郡山の570キロ迂回輸送が始まった。
この「燃料輸送列車」は4月21日まで続けられ、盛岡に37000キロリットル。郡山に20000キロリットル。ピストン輸送によって石油が届けられた。
鋼の助っ人達に誉あれ。黙祷。
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