昭和50年代。
男の子達は家に帰ると、ランドセルを玄関に放り出して空き地に集まった。
「野球しようぜ」
とは言え「軟球」と呼ばれる名前の通り柔らかい球種であっても民家のガラスを割る程度には硬く(「ドラえもん」でよく出るとおり)、道具は更に柔らかいゴム球とプラスチックのバットだった。当然年齢で体力違うので有利不利が生じるが、そこは適度にチーム分けして、日が暮れてボールの行方が判らなくなるまでバットを振って走った。
で、家に帰ると晩酌のオヤジと一緒にテレビ中継で野球を見た。学校に行くか野球に接しているか。それが「男の子の日常」だった。そんなブームを通り越した「当然」の世界を作り出した男こそ、讀賣巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄である。

逝かれた。6月3日午前6時39分。89歳。現役時代の「背番号3」から、全部3の倍数の日時に89の歳に逝かれたと、最期すらもドラマティックともっぱらの話題だ。自分が野球を知り、興味を持ったのは昭和51年であるから、長嶋茂雄という存在はその時背番号90で巨人の監督であった。
伝説とエピソードは枚挙にいとまがない。デビュー戦の「4打席全て三振」からして、既にそのドラマティックな現役時代の片鱗を見せるが、翌年の天覧試合(昭和天皇がゲームを見に来られた)におけるサヨナラホームラン、そして、巨人の9年連続日本一、いわゆる「V9」時代の中軸となり、ミスター・ジャイアンツ、更にはミスター・プロ野球などと(讀賣の影響下では)呼ばれた。讀賣=日本テレビグループの積極的な「推し」も相俟って、野球を憧れのエンタテインメントの領域に引き上げ、誰をも夢中にさせ、「プロ野球選手」を憧れの存在にさせた。「巨人の星」「侍ジャイアンツ」「ドカベン」……野球を題材にしたマンガ・アニメが大いに流行った。
「天才」の例としてこのブログでも良く引き合いに出す。
記者:長嶋さん、バッティングの秘訣は?
長嶋:いい球が来たらね、こう、スパーンと。
理屈ではないのである。ピッチャーの手先とホームベースの距離は18.44m。ピッチャーの投げる球を時速130キロとすれば秒速36mであるから、ざっくり「0.5秒」で「いい球」が来たから「スパーン」……反射的にそういう行動が出来るというのは応じた神経系の作り(いわゆる野球脳)と身体能力の賜物といえる。「やりたいこと・できること・やれといわれること」は往々にして一致しないが、全てが一致した上「巨人」というチームにピタリとハマった、それが長嶋茂雄と言えよう。一方、
「僕、バースデーホームランって打ったことが無いんですよ」(野球シーズンは4月から10月。長嶋茂雄の誕生日は2月)
等、「おバカ」エピソードは山ほど残されている。一塁ベース踏み忘れ事件(ピッチャーゴロでアウトの扱い)、まだ幼かった息子の一茂さんを球場に置いて来ちゃった事件……etc……etc……。
いずれも「野球脳」の一例とされているが、根本的に「面白い・楽しいと思ってもらうこと」を目指した人であり、これらエピソードも「面白ければ、いいじゃないですか」な印象を受ける。ジョギング中に少年ファンのサインの求めに応じたり、「折角球場まで足を運んでくださったお客様が『つまらない』と思って帰るようなことがあってはならない」と常々口にしていたなど、「生まれつきのエンタテナー」であったと言えよう。
長嶋一茂が出したコメントは、この一時代を築いた男の全てを現していよう「父は、野球の星に帰りました」
その名声こそは「永久に不滅」であれ。
最近のコメント